赤い実

芦田朴

第1話

 昨日、母が死んだ。


 10年ぶりに再会した母は棺桶の中にいた。

「こんな顔だったっけ……」

母の顔を見て僕の口から出た第一声はそれだった。

久しぶりに見る母の顔に親しみを感じることができなかった。どこかの知らないおばさんの顔を見ているような気がして、不思議だった。


 僕がまだ小学2年の頃、母はアルバイト先で知り合った男と駆け落ちして、僕を捨てて出て行った。その事を知ったのは僕が小学校を卒業してからだ。

 母から捨てられた後、僕は毎日泣き腫らした。当時の僕は母に捨てられたのは、ピーマンが嫌いで食べなかったからとか、算数の宿題をいつもサボったからだと思っていた。僕が母の言うことを聞かない悪い子だったから、自分に愛想を尽かして出て行ったんだと泣き続けた。

 母がいつ帰って来ても見つけられるように、僕は自宅がある団地の4階の窓からいつも泣きながら外を眺めていた。公園の茂み、電柱の影に母の姿を探した。日が沈み夜が訪れると、父がテーブルに夕食を用意してくれた。いくら父が明るく振る舞っても静かな2人だけの食卓が、寂しくて悲しくて心の奥が痛かった。


 高校3年生になった今、僕の中にあった母への感情はとうに干からびていた。棺桶にいる母のシワだらけのやつれた顔を見ても、不思議と悲しくなかった。母から捨てられた後、僕がどれだけの涙を流したか、父と二人だけの生活がどれほどつらかったか。いつか再会する事があれば文句を言ってやりたいと思っていたのに。そんな消化されない怒りや悔しさが胸の中でくすぶり続けていた。


 母には弟がいた。僕は彼に懐いて「髭おじちゃん」と呼んでいた。いつも口髭と顎髭を生やしていたからだ。彼も僕のことをよく可愛がってくれていたし、母が家から出て行った後も時々連絡をくれた。母が死んだと教えてくれたのも、髭おじちゃんだった。母の棺桶は髭おじちゃんの一軒家の殺風景な居間に、ぽつんと置かれた。所々剥げて変色した畳の色が、豊かではない暮らしぶりを物語っていた。


 僕が家の奥にある汲み取り式のトイレから出てくると、縁側で髭おじちゃんがぼんやりと夜の庭を見ていた。庭はほとんど整備されておらず、雑草だらけで、眺める価値などないような庭だった。髭おじちゃんは僕に気づくと「ナオキ」と僕を呼んだ。そして自分の隣に座るように手で合図した。髭おじちゃんはいつもと変わらぬ穏やかな口調で、僕に言った。

 「敦子姉さんは、苦しまずに死んだから、よかったのかもな。彼女にとっては生きてる方が、苦しかったんだろう」

 敦子というのは母の名前だ。母は精神科の病院に入院していた。結婚する前から精神を病んでいたらしい。母は入院中、病院の非常階段から転落して死んだ。自殺なのか事故なのかはわからなかったが、みんな自殺だと考えているようだった。ただ周りの状況から見て、事件ではないと判断された。

 

 母は生前、人付き合いはなく、母の親族とは疎遠になっていたから、ほとんど人は来なかった。父と、父と再婚した継母も葬儀には来たけど、すぐに帰って行った。彼らの一応仕方なく顔を出した、という感じが僕にも伝わっていた。


 僕はその日は家に帰らず、独身の髭おじちゃんのそばにいてあげることにした。髭おじちゃんの最後の肉親である僕の母を亡くして、見ていられない程、意気消沈していたからだ。

 「もう誰も来ないだろう」

髭おじちゃんは柱に掛けられた時計を見て、ため息混じりにつぶやいた。時計の針は10時25分を指していた。髭おじちゃんはテーブルに並べられた出前で取った寿司桶を見ながら「ずいぶん寿司が余ったなぁ」と言って悲しげに笑った。

 「コレ一応特上握りだぞ。ナオキ、遠慮なく食ってくれよ。捨てるのもったいないからな」

 髭おじちゃんはそう言うと、台所の洗い場の下から安そうな一升瓶を取り出した。テーブルの前の座椅子に座ると、ガラスのコップに並々と酒を注いだ。

 「ナオキはまだ高校生だからな、残念だけどダメだ。敦子姉さんも後2年して死んでくれたら、ナオキと飲めたのになぁ、って不謹慎か」

そう言って髭おじちゃんは力なく笑った。


 髭おじちゃんのお酒がずいぶん回って来た頃、髭おじちゃんは顔を赤くし、首を捻りながらつぶやいた。

 「でもな、納得いかねぇんだよな」

 「何が?」

 「敦子姉さんが自殺するなんて思えなくてな」

 「なんで?」

 「だってよ、姉さんが自殺する前の日、俺お見舞いに行って会ってんだぞ。その時はさ、なんか顔色もいいし、目には光があるしさ。とても自殺するなんて思えなかったよ。この分だと退院も近いって思ってたんだがなぁ」

「そうだったんだ……」

髭おじちゃんはコップの酒を飲み干して、テーブルに置いた。

 「まぁでも、それがそういう病気なのかもしれないけどな」

 髭おじちゃんは母の死を受け入れるよう自分を説得するにそう言って、再びコップに酒を注いだ。髭おじちゃんは寿司には全く手をつけず、ひたすらコップの酒を飲んでいた。


 髭おじちゃんはトイレから戻ると、隣の部屋に敷いていた布団にそのまま入って、いびきをかいて寝始めた。僕は居間に布団を敷いた。髭おじちゃんのいびきがふすま越しに隣の部屋から聞こえていた。外から聞こえる蛙の鳴き声が、夜の静寂さを際立たせていた。布団に入って、天井から吊り下げられた電気の紐がユラユラするのを見つめていた。寝つきの悪い僕は、ぼんやりと昔の記憶を手繰り寄せた。


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 あれは小学1年生の時だ。学校から帰ると、母が台所にいて鼻歌を歌いながらジャムを作っていた。僕は当時からいつも心を病んでいる母の顔色を伺っていた。ジャムを作っている時の母は機嫌が良かった。果実と砂糖を煮詰める甘い匂いが部屋中に立ち込めていた。僕は指先で小さな赤い実をつまんで訊いた。

「これ、何?」

「これはジューンベリーっていう実よ。中学校の裏にある公園を散歩してたの。そこにいっぱい成ってたから、たくさん取って来ちゃった」

「食べれるの?」

「甘くて美味しいの。明日パンにつけて食べようね」

僕は母を手伝ってジャムをかき混ぜた。母は嬉しそうに僕の頭をくしゃくしゃに撫でながら笑った。

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