日本の歴史、バイクの歴史

 ガチガチの運動部推奨学校である翔紅学園であっても、当たり前の話だが通常の授業が行われる。

 文武両道を掲げるのはどこの学校も同じであり、恐らくは例外など無いだろう。


「聖歴1990年代。世界中を、空前のモーターサイクルブームが席巻します」


 そして千迅と紅音のクラスでは、今は歴史の授業が行われていた。

 成績優秀な紅音は勿論、意外と言っては失礼ながら千迅もまた勉強が不得手ではない。

 更に今教壇の先生が話している内容は、既に履修済みの部分だ。しかも数百年前の話と言う訳ではなく、ほんの数十年前の出来事だった。


「……ふぁふ」


「……一ノ瀬さん。……続きを」


「は……はいっ!」


 だから千迅が思わず欠伸をしたとしてもそれは仕方のない話で、それを先生に見咎められて注意を受ける事も……栓ない事としておこう。

 この部分は、今の千迅たちの状況を作り上げた転換点と言っても過言ではない。

 そんな重要な部分を、教科書を広げた千迅がシンっと静まり返った教室で読み上げる。


 世界に旋風を巻き起こしたバイクブームの余波は当然日本も例外なく襲い、凄まじい加速で全国に行き渡り、その後の「文化」にまで影響を与える程となったのだった。

 人々はバイクレースに熱狂し、挙ってバイクの購入を望んだ。

 良くも悪くも熱しやすい民族である日本人の特性が、この時如何なく発揮されたと言っても良かった。


 ―――そして時は流れ、聖歴2016年。


 未だ「バイク文化」は鳴りを潜める事無く、それどころか確固たる地位を築き上げていたのだった。

 それまでは当たり前に「車社会」であったが、2000年代に入る頃には「バイク社会」と言って差し支えない程に人々の生活へと浸透を済ませていた。

 ただし「車」と言うものが世の中から排除された訳では無く、明確に住み分けが成されたという意味である。

 物資の搬送と言う面では未だにバイクは車に遠く及ばず、またその方面で張り合おうとはしなかった。それは航空機や船舶も同様であり、それぞれ特徴を活かした運用が用いられているだけである。

 そんな中でバイクは「個人所有の移動手段」として、各家庭に必要不可欠な存在となっただけであった。


「……はい、そこまで。一ノ瀬さん、授業は集中して受けるようにね」


「ふぅ……。分かりましたぁ」


 先生に釘を刺され、千迅は大きく息を吐いて着席した。

 周囲の生徒からはクスクスと笑い声が漏れ、一瞬弛緩した空気が教室を満たした……かのように見えたのだが。


「それじゃあ、赤井さん。この様に、バイクが私たちの生活にここまで慣れ親しむものとなった最たる理由は何ですか?」


「は……はいっ! その……それは……」


 そんな雰囲気に、一番笑い声が大きかった千迅のすぐ前の席の女生徒が次の生贄に指名された。

 突然名指しされて、それまで他人事と気を抜いていたこの少女はまるでバネの様に席を立つと、アワアワとしながらも答えだした。


 現在の様にモーターサイクル……バイクが主流となった理由は、偏に「ATS (アンチ・ターンオーバー・システム)」の実用化によるところが大きい。

 二輪走行車における最大の欠点であった「転倒」という問題を、コンピューターによるバランス制御技術の向上という形で解消したのだ。

 そしてそれは日進月歩で技術的向上を見せ、2005年には殆どのバイクで通常走行における転倒を全くと言って良い程無くしてしまったのだ。

 その一点を見ても、一昔前の様に言われていた「バイクは危険な乗り物」というレッテルを払拭する事に成功したのだった。


「……宜しい、席について。これらの背景を受けて、モーターサイクルが生活に密接となった理由は他にもあり……」


 解放された女生徒は、まるで脱力するように席へと付いた。

 だが、それを見て笑う者はもう……いない。何故なら、次は自分が当てられるかも知れないからだ。

 そして再び静寂の戻った教室では、先生の声だけが響き渡り出した。


 世界的ブーム、そして技術的革新と言う背景を受けて更にバイクの需要を確固たるものとしたのは、国家事業として大々的に取り上げられた一大プロジェクトである「バイク専用車道の設立」であった。

 車両の運用において最も懸念されるのが……事故である。

 これは運転者の油断や不注意、未熟などもあれど、大きな問題としては「車種と運転目的の違い」に依るところが大きかった。

 一般四輪車両に乗る全ての者が、必ずしも同一の目的を有している訳では無い。

 仕事で使用している者もいれば、家族で出かけている場合もある。

 近所に買い物へ出かけている者もいるだろうし何の目的も無い者だって皆無ではない。

 そう言った目的の違う者が、それぞれ大きさや速度の違う車両で同一の道を使用する事が事故の大きな原因と考えられたのだ。

 しかしそれが分かった処で、元々国家面積の狭い日本には手の打ちようがなかった。

 拡張工事を敢行しようにも、1車両分の道路を増やすだけで様々な問題が浮かび上がっていたのだ。


 だがバイクが人々の足になる事で、この問題は大幅に解消される事となる。


 元々バイク自体が車幅を取らない車両である。4輪車を1台通す為の道路幅で、上手くいけばバイク用道路3車線を作り出せるのだ。

 そして人々の意識はバイクへと傾倒している。

 実用は思いのほかスムーズに行われ、結果として商業車両と一般仕様バイクの住み分けが成され、事故は驚くほど減少する事となり、更には交通渋滞緩和という結果まで生み出し、スムーズな物流まで実現したのだ。

 淀みの無い人と物の流れは景気にも大きく寄与し、経済の発展に大きく貢献したのだった。


「……でも、全く問題が無かった訳ではありません。……速水さん」


「はい!」


 話を区切った教師が次に名を呼んだのは紅音だった。

 千迅の様に授業中に気を抜く事は無い彼女は、先生の声にキビキビと反応し立ち上がった。


「ここで考えられる問題と、それを解決した主な理由は何でしょうか?」


「……はい。それは、日本人特有の感性が大きかったと言われています」


 そして紅音は、先生の出した質問にも流暢に返答して見せたのだった。


 モーターサイクルを大々的に取り扱うに際して考えられる唯一の……そして最大のネックは、常に外気へとその身を晒さなければならない点にある。

 世界でバイクを主流にする流れの中で、各国が最も頭を悩ませている問題の一つがこれだ。

 しかしこの問題すら、日本においては大きな問題とはなり得なかった。

 元々四季を感じる事に風情を覚えるのが、日本人という民族である。

 高い順応力も有するこの民族は変化する交通手段に柔軟な対応を見せ、暑さ寒さは勿論のこと、雨や雪に晒される事すら苦にしなくなった。

 それどころかそれすらも「気持ちがいい」「情緒がある」と捉え、その為にヘルメットを被らなければならないという行為すら、何時しか気にしなくなっていたのである。

 もっとも日本人が特に気にするのは「他者の眼」であり、周囲が皆同じ格好をしていたならば、誰もそれを気にする事など無いというのが実状なのだが。


「……はい、大変良く出来ました。席についてください」


 紅音の回答を聞いた先生は満面の笑みで彼女を評価した。

 それに紅音は気をよくした様子もなく、澄ました表情で着席した。彼女にしてみれば、これくらいの問題は悩むまでもない事だったのだ。

 そしてここで、終礼のチャイムが鳴る。


「では、今日はここまでです。次からは近代文明の授業を始めますので、各人は予習をしておくように」


 先生の締めの言葉を以て、この授業は終わりとなった。

 これを皮切りに、本当に弛緩した空気が教室を支配したのは言うまでもない事だった……。




 バイク文化の発展により、当然の事ながらその周辺も驚くべき変化を見せる。

 特に成長著しいのは、運転時に身に着ける物である。

 ヘルメットやバイカースーツは高性能の一途をたどり、より軽く薄い素材が開発され、それに平行して耐衝撃や耐擦過性能が向上した。いまやした程度では、大きな怪我に発展する事は殆ど無くなったのだった。

 老若男女がバイクを使用し、その生活に溶け込んで行く。そしてその様な「バイク文化」の波は、もれなく学校教育にも波及する事となった。


 100%企業出資の学園が全国に多数設立され、そこではモーターサイクルに携わる活動が活発に行われていた。

 各校内では複数の「自動二輪倶楽部」が発足し、校内でのクラブ同士や他校との対外試合が頻繁に行われる事となる。

 男女問わずにプロレーサーを目指す者が増え、それに拍車をかける様に様々なレースが至る所で行われていたのだった。


 そしてここ「ホンダ資立翔紅学園」にも、全国から選りすぐられた「レーサー」が特待生制度を利用して集められていたのだった。


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