才能……なし!
コースを疾駆した紅音はそのままホームストレートには向かわずに、途中でピットロードへと入りパドックへと帰って来たのだった。
本来ならば、チェッカーフラッグを受けて初めて勝ち名乗る事が出来る。
しかしこのレース自体がエキシビションであり、公式なレースではない。
紅音としても、先程まで共に走っていた「仲間」が転倒によりどうなったのか気にならなかった訳では無いし、元よりこのレースの勝敗などには興味が無かったのだ。
勿論、彼女が勝負事に疎いとか対抗意識が希薄であると言う訳では無い。それどころか紅音は、誰よりも速いライダーを目指している。
そんな事は、レースに参加する者ならば当然であろう。
では何故、今回のこのレースに感心を抱かなかったのか。
……それは。
「お疲れ様ですっ、速水先輩っ!」
「……ありがとう」
ピットインした紅音はマシン同様に赤く染め上げられたヘルメットを取り、その中で窮屈に纏め上げられていた髪を解放した。
すでに傾いた陽光がサーキットに射しこんでおり、その光を受けた彼女の長い髪はまるで金色の様に輝いている。
ピッチリと身体に張り付いているライダースーツも相まって、マシンから降りた彼女の姿はスラリと美しいシルエットを醸し出していた。
この学校が女子学園である理由の一つは、正しくこれにある。
技術の進歩により耐久性や緩衝性能が格段に飛躍したライダースーツは、此れもまた飛躍した技術のお蔭でより薄く、しなやかな素材が用いられている。
それにより、着用者のボディラインを如実に浮かび上がらせているのだ。
そしてそれは、思春期を迎えた男子にとって目を奪うに十分な破壊力を秘めている。
学問やクラブ活動に専念すると言う事は勿論、女性側への配慮と言う側面から男子と女子の学部に分けられて、その立地距離も大きく隔たれていた。
「でも最後の第1コーナー、少し慌てました。あそこで一ノ瀬先輩に抜かれた時は、どうなる事かと思いましたよぉ」
「ふふふ……そう? でも私は、こうなる結果が分かっていたんだけどね」
彼女がこのレース自体に然して興味を示さなかった理由は……つまりそう言う事である。
紅音には
だから彼女があの場面で無理をする必要は無かったし、千迅に頭を取られても慌て無かったのだった。
不思議そうな顔で小首を傾げる下級生に、紅音は更に説明を付け加えようと口を開きかけてそれを取りやめた。
紅音の視線の先で、ヘルメットを片手でぶら下げながらバツが悪そうに頭を掻きコースを歩いて来る一人の少女が映ったからだ。
その細身の身体に纏った青いツナギは、陽の光を受けて彼女の髪共々赤く浮かび上がらせていた。
千迅が互いに表情の分かる距離まで近づいて来ると、紅音は諦念染みた笑みで彼女を迎え、それを受けた千迅もまた「たはは」と零しながら微笑んだ。
彼女としても、中等部最後のレースは何としても紅音に勝ちたいとは考えていた。
しかし結局はレースを楽しむ事を優先し、勝負にこだわり切れなかったとの反省点があり、それがこの苦笑に表されたのだった。
千迅のコースアウトと言う形で幕を閉じたエキシビションレースであったが、観客である女子たちは満足した顔でサーキットを後にした。
「紅音先輩の見事なドライビング・テクニックと綺麗なコーナリング・ワークも、これで見納めか―――……」
「それを言うなら、千迅先輩の見事なクラッシュもこれが最後よ?」
「ああっ! その気持ち、分かる―――っ!」
女子生徒たちは、思い思いの感想を口にしながら帰路へと着いて行く。
そしてその場に残されたのは、「自動二輪倶楽部中等部」の面々であった。
「あーあ……これで私達も卒業だね―――」
そう呟いたのは、千迅や紅音と同い年のメカニックを専攻していた少女であった。そしてそれに、他の同級生たちも頷いて応えた。
今日行われたのは、何も千迅と紅音だけのレースと言う訳では無かった。
本日のエキシビションは、「ホンダ資立翔紅学園中等部」の今年卒業する生徒による「卒業記念レース」だったのだ。
これは毎年この学園で行われている、いわば送別会の様なものであった。
「千迅と紅音は、高等部に行ってもバイク……続けるんでしょ?」
「当然っ! もっとも―――っと、速くなりたいもんっ!」
「ええ……もっと速くなって、
質問を振られた二人は、当然の様にそう答えた。
そもそもこの学園自体がレーサー育成に重きを置いているのだから、そう答える者が殆どと言って良い。
ただし、全員がそうであるとは必ずしも言えないのも事実であり。
「そうなんだ―――……。私は……レースから身を引こうって考えてるんだ―――……」
中には自身の才能に早々と見切りをつけ、プロになる夢を諦める者も少なくないのだ。
レースと言う弱肉強食の世界を考えれば、それもまた致し方ない選択であり。
「……そう。今まで一緒に走れて、楽しかったわ」
「うんっ! またいつか、どこかで一緒に走ろうねっ!」
「……うん」
こういった別れが付いて回る世界でもあるのだった。
「あーあ……。紅音ちゃんには結局、最後まで勝てなかったな―――……」
すでに着替え終えた「自動二輪倶楽部中等部」の面々は帰路にあり、その途中で千迅が残念そうに呟いた。
そこには心底悔しさが滲んでおり、先程の
「……ふぅ。何を言ってるんだか。勝つも何も、あなた途中で転倒してるじゃない」
そんなある意味感傷染みた千迅の言葉に、紅音は容赦のない事実を突きつけた。
「うっ……。いや、あれは偶々で……。行ける―――って思ったんだけどね―――……」
紅音の鋭いツッコミに、千迅はややたじろいで言い訳を口にするも。
「もう……あなたはそればっかりね。思うのは良いけれど、それを実践出来ない事にはいつまでたっても私には勝てないわ」
更なる指摘を受けて閉口を余儀なくされるのだった。
もっとも、こんなやり取りは既に日常茶飯事……定番と言って良い会話である。
それが分かっているから、彼女達を取り巻く周囲の雰囲気も和やかなものであった。
「でも、高等部に行ったら負けないからねっ!」
「はいはい、期待しているわ」
そしてこれもお決まりと言って良い、最後は紅音があしらって二人の掛け合いも終了するのであった。
「それじゃあ、私はすぐにお風呂に行くけど……紅音ちゃんはどうするの?」
宿舎の玄関口で紅音と別れる際、千迅は彼女に問い掛けた。
「ん―――……。私は一旦部屋へと戻ります。お風呂は後にするわ」
僅かばかり考えて、紅音は千迅にそう答えたのだった。
レース後、彼女達は当然の事ながらシャワーを浴びている。身体に密着して外気を通さないライダースーツの中は、言うまでもなく汗だくとなっているからだ。
そんな状態で、年頃の女性が汗も流さないまま着替えるなどあろう筈がない。
ただし汗を流すと言う行為とお風呂に入る事は別であり、宿舎に戻った彼女達はほとんど例外なく浴室を利用する。
全寮制を布いているこの学園だがその宿舎の規律は比較的緩やかであり、入浴ならば24時間いつでも利用可能であった。
「あ、そ。んじゃあ、また明日―――」
簡単に挨拶を交わして、千迅は早々に自室の方へと向かって行った。
「でも、あんた達の争いも高等部まで持ち越しか―――……。まさにライバルって奴ね」
半ばその様子を見送る形になった紅音に、同級生が声を掛けた。
その言葉は先程行った「卒業記念レース」の余韻を引き摺るものであり、然して深く考えられたものでは無かったのだが。
「……ライバル?」
ピクリ……と片眉を反応させた紅音が、僅かにくぐもった声で反応する。
それを聞いたその同級生達が、僅かにざわりとした空気を作り出していた。
「あの子は、私のライバルにはならないわ。……いえ、なれないでしょうね」
そして誰に答えるでもなく、紅音はそう付け加えた。
それを聞いた少女たちは、笑顔を引きつらせてやや引いていたのだった。
容姿端麗、学問優秀……そしてこの由緒ある「自動二輪倶楽部中等部」の主将を務め、周囲の者達からも絶大な信頼を寄せられている速水紅音にあって、その唯一と言って良い欠点が正しくこれ……たまに吐く毒であった。
それと知らない他の者や下級生たちには、さぞかし紅音は優等生に見えている事だろう。もしかすれば、完璧な女生徒と映っているかも知れない。
実際それを裏付けるかの様に、学内には密かに速水紅音のファンクラブが存在すると言う。
そんな紅音だが、気の置けない仲間達の前では極まれにこの様な本音……辛辣な毒を吐く事があるのだ。
当初はそのギャップに恐れ慄いていた仲間達であったが、今では「持病の発作」程度に順応している。
もっとも、だからと言って慣れると言う訳でも無いのだが。
「あの子は速くなったわ……最初の頃とは見違える位に。ライダーとしての適性があったんでしょうね。……でも」
そんな周囲の反応を余所に、すでにそのモードへと切り替わってしまった紅音は、つらつらと言葉を紡ぎ出してゆく。
「あの子ほど才能の無い子は……いないわ」
本日……そして恐らくは中等部生活最後にして最大の毒をシレッと吐き、紅音は自室へ向かうべく歩き出した。
余りにインパクトのある言葉を聞いて、ある程度耐性のある友人たちもすぐには動き出せずにいた。
それでも僅かばかり後には意識を取り戻し、慌てる様にして彼女の後に続いたのだった。
紅音が僚友である千迅に対してこうまで辛辣な物言いをしたのには、何も個人的な感情を述べたのではなく明確な理由がある。
千迅の、中等部における公式レース戦績……。
―――6戦……1勝。
内、リタイヤでの棄権が5つ。
単純にレースで負けたと言う訳では無く、完走さえ出来なかったレースが圧倒的に多いのだ。
これでは紅音が千迅をそう評する事も仕方がないと言える。
練習ではめっぽう速いが、公式戦となるとからっきし振るわない……。
千迅に対する周囲の評価は、軒並み紅音と同じだったのだ。
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