2.最速の乙女たち

本田千晶

 ―――聖歴2016年4月。


 一ノ瀬千迅と速水紅音は中等部を卒業し、無事に高等部へと進学を果たしていた。

 そうは言っても、中高一貫教育の翔紅学園である。余程の問題行為や、マイナス方向に驚くほどの成績を叩きださない限りは進学出来て当然とも言えた。

 それでも、再び最低学年の新入生となり新たな環境になれば、2人が心を躍らせても少しもおかしい事では無かった。




「1年B組、一ノ瀬千迅ですっ! 宜しくお願いしますっ!」


「1年A組、速水紅音です。宜しくお願いします」


 目の前に居並ぶ先輩一同を前に、千迅と紅音は他の新入部員同様、当たり障りのない挨拶をして千迅はペコリと、紅音は小さくお辞儀をした。

 そんな2人に向けられた上級生たちの視線は概ね好意的……なれど、どこか値踏みをするものであった。

 その様な視線を年上の生徒から向けられれば、如何にこの2人と言えども流石に居心地が悪くなる。


 この2人が、そう言った奇異を含んだ目で見られるのも仕方がなく……そして、ある意味で慣例と言って良かった。

 エスカレーター式で中等部から高等部へ進学し、そして中等部同様自動二輪倶楽部へと入部を果たせば、ある程度名の知られた者ならば興味を引かれて然りである。

 ましてやこの2人は中等部のTOP1、2であり、紅音に至っては主将を務めていたのだ。

 有望な新人ともなれば、知られていない方がおかしいと言うものであった。


「あなた達の事は高等部でも知られていましたよ。ようこそ、〝第一〟自動二輪部高等部へ。私が主将の本田千晶です。宜しくね」


 一通り新入生の挨拶が終わり、そのタイミングを見計らったかのように居並ぶ上級生の中から一人の少女が一歩前に進み出て、横一列に並んだ千迅たちの前に立った。

 ただそれだけで。

 たったそれだけの、至極普通の振る舞いだけで、新入部員の全員が息を呑んでその少女に注目した。


 青味がかった、真っ直ぐに伸びた美しい髪。

 同じく深い青を宿す瞳と、日本人とは思えない長いまつげ。

 スラリとしたスタイルは、ピンと伸ばされた背筋によって更に品よく綺麗に見える。

 まるでモデルの様な細い腕に精緻な指先。そしてひざ丈のスカートから延びた足。

 その仕草もその声も、別段特別に作ったものではない。

 あくまでも自然体であるにもにも拘らず、千迅と紅音……いや、その場にいる下級生たちの誰もが、呼吸すら忘れたかの様に呆けた視線を彼女へと向けていた。




「……クク」


 そんな千迅達の意識を呼び戻したのは、上級生たちの中から洩れ出た押し殺した笑い声だった。

 我に返った新入部員たちは、皆一様に顔を赤らめて俯いてしまう。

 この学園は女学校であり、当たり前ながら生徒は全員少女である。

 多感な青春時代を同性だけで集団生活するのだから、所謂「百合」的な感情を持つ者も実は少なくない。

 ただし、少なくともこの「第一自動二輪倶楽部」においては、その様な浮ついた気持ちを抱く者はいない。

 表面的には……だが。

 兎にも角にも、此処に集う少女達にはそんな事に現を抜かしている余裕はなかった。

 彼女達のほとんど全員が、学校から奨励金を受け取っている所謂「特待生」だ。

 モーターサイクルレースに集中し、そこである程度の結果を出さなければならない立場にいる。

 また、この学生時代に於いて目を見張るような活躍が出来なくとも、その先にある「プロ」という世界を目指すならば脇目も振らず精進しなければならないだろう。

 故に、このクラブに集まった少女達には同性であれ異性であっても、恋をしている場合では無いというのが本当の処なのだ。


 そんな彼女達が、僅かな言葉を掛けられただけで意識せざるを得なくなる存在……。

 それが「本田千晶」という少女であった。




(へぇ―――……。あれが国内最速女子高校生の本田先輩かぁ……)


(あれが……本田千晶……。現役高校生最速と言われる、あの……)


 ほとんど同時に我を取り戻した2人がまず思った事は、本田千晶と言う女性のキャッチフレーズであった。

 もっともそんなシリアス調の思考を思い浮かべてはいても、先程までは他の同級生同様に本田千晶と言う女性に目を奪われていたのだが。

 ただし、彼女達が思い浮かべたその言葉に偽りはない。

 そしてそんな一言では足りないほど、本田千晶には様々な「顔」があったのだった。


 ―――翔紅学園3年A組、本田千晶。

 現翔紅学園高等部第一自動二輪倶楽部主将。

 部活動において主将を務めているにも拘らず、請われて生徒会にもその名を連ねており、「影の生徒会長」とまことしやかに囁かれていた。

 幾つもの大会で優勝を収め、現役女子高校生最速の名を欲しいままにしている。

 そして何よりもその名にある通り、彼女はこの学園のスポンサーであり世界有数の企業である「本田技術工業」創始者、本田一族に連なる者であった。

 高校生とは思えないほどの美貌に成績は学年テストに於いて1位を譲り渡した事が無く、高名な家柄であり正しくお嬢様。

 下には優しく、横には平等であり、部員だけでなく同級生や下級生からも慕われる、完全無欠の生徒。

 そしてバイクのテクニックは超一級。

 非の打ち所がない……という言葉は、正に彼女の為にある様であった。

 千迅と紅音も高等部の一部上級生たちに知られる存在ではあるが、彼女こそ知らぬ者はいないという程の超有名人だと言って良かった。


 動きを取り戻した彼女達は、堰き止められていた時間を取り戻すかの如く今度は小声で隣の女生徒たちと話し出した。


「ふわ―――……。実際に本物を見ると、やっぱり違うね―――……」


 そして紅音の隣で、千迅も未だ僅かに呆けた顔でそんな言葉を呟いていた。ただその感想は、紅音も同様であったのだが。

 千迅は純粋に、本田千晶を尊敬の眼差しで見ていた。……いや、それは少し齟齬があるかも知れない。

 千迅の心中では「本田千晶と競争してはしってみたい」と言う、普通ならば何とも大それた思いが込められていたのだ。

 一方の紅音はと言えば、一人厳しい顔つきを取り戻して本田千晶を見つめていた。いや……睨みつけていた。

 彼女もまた本田千晶との勝負を望んでいるのだろうが、その内容は千迅とは大きく異なっている。厳密には同じだろうか。

 ただ「勝負」に拘っていると言う点では、千迅と紅音には大きな隔たりがあると言って良かったのだ。

 本田千晶と言う高過ぎる壁を前にして、2人はそれぞれに新たな目標を実感していたのだった。


「はいはい、そこまで―――。千晶に見とれるのは分かるけれど、これからは同じクラブの先輩後輩なんだからね。見惚れてるだけじゃあ駄目だよ」


 そんな一同に声を掛けたのは、同じく上級生の中から一歩前に踏み出した少女であった。

 その声は、先程失笑を洩らした人物と同じ。


 ブラウンの髪をポニーテールに纏め、そのきつめな視線で年下の部員にそう告げる彼女は、身長も高めでありどこかしら男らしいと言った印象がある。


「もう、美里。見惚れるって何なのよ?」


 そんな彼女に、千晶はどこかお道化た口調で気軽に答え。


「兎に角みんな、もう言うまでもないと思うけど、レースの世界は実力社会よ。年齢の上下に関わらず、互いに切磋琢磨して腕を磨きましょう」


 その後、立ち並ぶ女生徒たちにそう声を掛けたのだった。

 そして千晶は美里にその席を譲り、美里は千晶にウインクを返すとその場の主導権を彼女より引き継いだ。


「初めまして、私は菊池美里よ。主にあなた達の面倒を見る事になると思うから、みんな宜しくね」


 そう挨拶して美里は、最後にニカッと笑ってみせた。その語調や笑みは、本当に男前で頼れる先輩を地で行っている。


「はいっ! 宜しくお願いしますっ!」


 そんな美里の出現で緊張が解けたのか、千迅達一年生は声を揃えてそう返事をしたのだった。




「さて……新入生の皆さんには、早速コースに出てその走りを見せて貰います」


 和やかな雰囲気が流れ出した処に、千晶によってこの爆弾発言が投げ込まれた。

 そして一同は、再びどよめきと緊張に覆われる事となった。

 当たり前と言って良いだろうが、新入生一同は今日初めてこの部室へとやって来た。

 コースをマジマジと見た事も無ければ、高等部より乗る事となる「NFR250Ⅱ」を跨いだ事も無い。

 そんな彼女達に、千晶はコースを走ってもらうと言うのだ。

 不安気な表情を浮かべる一同を、千晶を始めとした上級生一同は笑みを浮かべて見つめていたのだった。

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