第4話吹いたよね

「先生聞いてよ!あのオヤジまたお尻触ってニタニタしてるのよ」

婦長が、いつものように大きな強い声で、早口でまくし立てる様に叫びながら近寄ってくる。体調が悪いと、こっそり逃げ出すのだが、あいにく朝のアールグレイを上手く入れる事ができて、私は上機嫌だった。

「あの人セクハラあるよ。嫌い!」

と婦長。ややイントネーションに癖があるが、上海で産婦人科医をやっていて、結婚、来日して、今は看護師をやっている彼女を〈煙たがる〉人も少なく無いけれど、私は彼女の「賢さ」と「明るさと」深い「優しさ」が好きである。

「どした」

「検温に行ったらサービスと言ってお尻を撫でられた!!ひどいでしょ?」

「私は毎朝モラハラよ!」と私。

「若い先生なら分かるけど、何でこんな年寄りまで??」婦長が嘆く。

「それがサービスかも」私が笑う。

「酷い、でもそうかも」彼女も笑う。

彼は上石神井の大工の棟梁77才。

上咽頭及び舌癌、全身転移して余命3ヶ月。キップは良いが口は悪い、いわゆる助平親父。大人しい妻に命じて500円玉を大量に持ってこさせて、

気に入った職員に配って、悦にいっている。若い頃は、女房子供を泣かせたが、今は子供を育て上げ、立派な隠居の身、が口癖の、人懐っこい大きな目玉の、憎めない下町職人さん。

腫瘍が喉を塞いで窒息しないように、−196度の液体窒素の棒で喉元を焼くのが、毎朝の私の日課。

「痛いなぁこの子娘が!」彼が怒る。

「でもあとが楽でしょ?」私が笑う。

「うっせえな」としかめっ面で私に500円玉を渡そうとする。

「私は良いから、大丈夫」

「TVチャリティでも出してあげて」

と私はちょっぴり舌を出す。

「夏だろ?そんなに生きられねぇ!オメェにあげてえんだよ!!」彼叫ぶ。

「ありがとう、その気持ち」

「でもお口悪いわね。その調子だと、お口曲がっちゃうわよ」私が笑う。

「うっせぇ」と彼が拗ねた。

4人部屋をカーテンで仕切って、2人で使っているのだが、横で休んでいた妻が苦笑する。

「オメェは見舞いに来るタイミングがいつも悪いんだよ!」と妻に悪態をつくが、妻も私も苦笑するしかなかった。

彼とは殆どトランスしない。たまに「女房には最後まで苦労掛けっぱなしだったな。謝りたいけど今更なぁ」と言う彼の思念が流れ込むが、すぐ消えた。

3日後いつものように処置終えると「ありがとな先生」彼が呟いた。

「珍しいじゃない、どした」と私。

「いや気紛れ」彼が寂しく呟いた。

翌朝出勤すると、彼の様態がすぐに急変。婦長と懸命に蘇生を試みる。駆けつけた妻が心配する中、かなりの時間が過ぎた。また自分の無力さを感じた。その時、柔らかな大きな風が、カーテンをまくり上げるように、吹、い、た。

私は霊魂を信じない、

でもそこに居た全員が、彼の感謝を感じた。

「吹いた、よ、ね」

「うん」

梅雨の着前だった。

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