第六章

王太子の消息

 アレクシスは執務室にいた。可能な限り部下へ権限を委譲し、前倒しで仕事を進めているとはいえ、多岐にわたる事業の最終意思決定者である彼の決済を要するものは多い。黙々と仕事をしていると、ノックと同時にダンカンが部屋に入ってくる。


「若。ミスター・クーパーがお越しです」

 

 カリカリとペンを走らせるアレクシスは、視線を上げようともしなかった。


「ブランドンが? 約束はなかったはずだが」

「はい。何やら直接お話ししたいことがあると」


 ダンカンは机に置かれているサイン済みの書類をまとめた。クラリスがいたら既に整理されていただろうが、彼女は弟の看病のため病室に詰めている。ダンカンは主の様子をさりげなく確認し、変わらず精力的に仕事をこなす様子にそっと安堵の息をもらした。


 ヴィクターが発病してから今日で一週間が経つ。軽症であるとはいえ発疹チフスだ。夜になると熱が上がり病状が悪化する日々だったが、ようやく昨夜から患者はうなされることもなく夜通し眠れるようになった。とはいえまだ油断はできず、昼間は姉のクラリスが、そして夜はアレクシスが付き添い、病気のせいで子どもらしい我儘を言うようになったヴィクターを宥めすかして薬を飲ませ、食事を摂らせている。

 ハリントン男爵家直系、それも当主が自ら進んで感染の危険に身を晒すなどあり得ない状況だ。

 ダンカンは当然抗議したし、些かならず腹を立てもした。しかし、アレクシスの意見が変わる見込みのないこと、そして医師の診断書からほぼ感染の可能性はないことを知り、やむなくそれを受け入れた形だった。


 もとよりダンカンとてクラリスたちを気にかけていない訳ではない。病人に対する十分な看護体制を整えたからこそ、家令として当主とその妹を守ろうとしただけなのだ。それをアレクシスから「体力のある成人男性の罹患率は低いとあるが、年寄りは別だ。お前はこの際ジュリアナと一緒に別邸に避難してはどうだ」などと言われては、意地でもウィンズロウ・ハウスに留まり、いつも通りの生活を送らずにはいられなかったのである。


 横目で主の顔を窺うが、小憎らしいほどの容姿に変わりはない。昼間に数時間の仮眠を取るだけで、よくこれほど集中できるものだ。感心しながら脇に避けてある二組の書類を手に取ろうとした家令に、アレクシスは視線を向けることなく告げた。


「その二件は突き返しておいてくれ。二度とそんなくだらない計画書を出すなと伝えろ」

「それほどひどいのですか」

「市場動向に関する見通しが甘すぎる。失敗を恐れるなと言ってはあるが、理想と願望と妄想の区別をつけられない者に事業は任せられない。次も同じような計画を出してくるようなら、今のポストは別の者に渡すと言っておけ」

「承知いたしました」


 連日の看病でろくに寝てもいないはずなのに、相変わらずの頭のキレだ。若干辛辣さが増しているような気がするが、睡眠不足のせいではなく書類の出来の悪さが原因だろう。独り納得するダンカンにアレクシスは尋ねた。


「ブランドンの用件を確認したか」


 最後の書類にサインを終えたアレクシスはペンを置き、壁の時計に目を遣った。午後三時。クラリスは庭に出て外の空気を吸っている頃だ。アレクシスは医師からのアドバイスに従い、看病するクラリスの健康を保つため、日に二回の散歩を義務付けている。


「いえ。例の布の件ではあるでしょうが、私には何も仰いませんでした。ただ、そわそわと落ちつかないご様子ではあります」


 含みのある口調の家令に視線を向けたアレクシスは、しばらく考えてからうなずいた。


「いいだろう。十分後に応接室へ通してくれ」

「よろしいのですか? 代理で私が伺うこともできますが」

「いや、俺が話を聞こう」


 アレクシスの負担を減らそうと申し出たのだが、彼はあっさりとそれを断った。沈黙で不服を示す家令を余所に、アレクシスは何か気になる様子で腕を組む。

 

「シエルハーンについて情報は入っていないのか」

「情報、といいますと」

「父上が仰っていたことについてだ」


 ダンカンと共に父と酒を酌み交わしながら様々なことを話し合った。元々持つ情報網に加え、世界を旅している父があらゆることに通じているのは疑いようのない事実だ。それは下手な諜報部隊を凌駕するほどで、だからこそアレクシスはその時耳にしたある情報について直ちに詳細を調べさせている。

 ダンカンは返却する二件の書類を揃えていた手を一度とめ、そしてすぐになめらかな動きを取り戻した。


「今のところは何も。お館様も不確定情報だと仰っていましたし、やはりあれは――」

「バリー」


 いつもとは違う声音で名を呼ばれ、ダンカンはひとつため息をついた。アレクシスはあの二人のことになると冷静さを失い、我が身を顧みず無茶をしようとする。ハリントン男爵家の家令としては憂慮すべきことだ。だが、嘘や誤魔化しを許さない青い目にじっと見据えられたダンカンは、観念して重い口を開いた。


「……お館様の仰っていたとおり、シエルハーンの王太子が生存しているという噂は確かにあるようです。しかし未だに確証を得られておりません」


 クラリスの兄が生きているかもしれない。父から聞かされたその情報は、あくまでも「噂」のレベルではあるものの、それなりに根拠のある話だった。


「父上の話では、弑逆された王と王妃の遺骸は城の前に晒されたが、王太子のものはなかったということだったな」

「はい。その点については確認が取れました」


 クーデターの首謀者は、手にした玉座に自らが就く正統性を主張する。その方法として手っ取り早いのは、先王の存在が悪であると証明することだ。アレクシスは組んだ右腕を立て、親指で下唇を軽く撫でた。


「悪の統治者として王と王妃を晒し国民を扇動したが、王弟の思ったようにはいかなかったか」

「そのようですね。ただ、先王は確かに穏やかな人物でしたが、国の発展という点で物足りない部分はあったようです。よくて現状維持、悪ければ衰退に向かうと。尤もそれは数年でどうこうということではなかったため、英明で知られた王太子が即位すれば国が変わると期待していた人々も多かったでしょう」

「もし王太子を殺していて、それを隠しているとしたら――」

「王太子の生存を信じる国民からの反発が大きくなり、王弟側にとって非常に都合の悪いことになるでしょうね」


 殺したのなら王たちと一緒に遺骸を晒したほうが国民の希望を砕くことができ、王弟の利になるということだ。

 国とは結局のところ、国民なくしては成り立たない。いっそのこと国民からの支持を得られない統治者として、恐怖政治を敷けるほど軍部を掌握できなかった時点で、王弟側に勝利の目はなかったと言える。


「王太子は生死不明。王女と王子はハリントンが保護している。王弟はクラリスたちを探すため、おそらくルフトグランデに密入国しているはずだ。……バリー。本当に新しい情報はなにもないのか」


 一拍置いてから、ダンカンは渋りながら打ち明けた。


「…………その王太子が、我が国にいるという話がありました」

「なんだと!? それは確かなのか」


 生死が分からないはずの王太子の、更に不確かな消息に関する情報だ。ダンカンは珍しく歯切れが悪い。


「いえ。誰かが見た、とかどこにいた、ということではないのです。シエルハーンから距離が近いのはエーベルですが、整備されているのはルフトグランデへ通ずる道です。おまけにこちらのほうが豊かで治安もいい。国境さえ超えられれば、王太子に味方する勢力を整えやすいのではないかと」


 憶測にすぎない話ではある。だが王太子の生死と同じく、あり得ない話でもない。現にクラリスたちはそうやって国境を超え、エーベルではなくルフトグランデにやってきているのだ。


 じっと考え込んでいたアレクシスは、ふと瞬いて時計に目を遣った。


「八分経った。二分後に応接室だ」

 

 言い置いて立ち上がる。王弟の動き。王太子についての不確定情報。ブランドン・クーパーの話も聞かねばならない。アレクシスの頭脳は高速で動き始めた。



 


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