初恋

 クラリスはぼんやりと椅子に腰掛けていた。


 ヴィクターは高熱と激しい頭痛、嘔吐に全身の痛みという症状に苦しんでいる。これがただの風邪などではないのは誰の目にも明らかだった。

 

 クラリスが弟を助けてもらうため、早朝にもかかわらずまだ寝ているはずのアレクシスの部屋へ飛び込んだ時、珍しいことに彼はきちんと身支度を済ませていた。余りにも必死だったために疑問に思わなかったのだが、旅行中だと聞いていた彼の父親が邸に戻り、そして慌ただしく出立した直後だったらしい。その父を見送りひと眠りしようとしていた時に、クラリスがやってきたということのようだ。


 手のひらに書かれた乱れた文字に事態を理解したアレクシスは、直ちに命令を出した。男爵家お抱えの医師が呼ばれ、ヴィクターは看病に適した部屋へ移された。患者の使った食器や汚れたリネンの交換をする際、使用していた西翼の客室では奥まりすぎていて不便だったためだ。


 医師の入念な診察の結果、病名は発疹チフスであると診断された。幸いなことにごく軽症で、滅多なことでは伝染することもなく、命の危険もないという。ほっとしたクラリスだったが、家令のダンカンからは男爵家の二人への接触を控えるよう告げられた。


「フレディ。あなたには申し訳ないことですし、心細いかと思いますがどうか理解してください。これはあなた方に対してだけの措置ではありません。邸内で感染性の病気が発生した場合、ハリントン直系のお二人は患者とその家族、そして患者に接する者とは物理的な距離を置くことになっています。お嬢様はしばらく別邸へお移りいただくことになりました。あなたたちのことを心配なさっていましたが致し方ありません。そして若ですが――」


 顔を上げたクラリスに、ダンカンは微かな不興を示す口調になる。


「どう説得しても邸を出るのは拒否されました。ただし、先ほども言ったとおりあなたたちと会わせることはできません。これは感染の危険が完全になくなったとお医者様から診断されるまで続きます。今の状況ではせいぜい一週間か、長くても二週間程度でしょう。それまでは寂しいでしょうが、どうか聞き分けてください。もちろん看護に必要な使用人はこちらで準備しますし、治療は万全の体制で行いますからね。心配しなくても大丈夫ですよ」


 そんな風に言われて、何の言葉を返すことができただろう。クラリスは頷いて、頭をぺこりと下げるしかなかった。


 ダンカンの言葉どおり、腕のいい看護師が昼夜を問わずヴィクターを看病してくれるようになった。だが、どんなに親切でも所詮は他人だ。幼い弟は熱にうかされながら姉を何度も呼び、そのたびにクラリスは枕元で弟の手を握って励ました。

 今も、親切な二人の看護師がヴィクターを診てくれている。つきっきりのクラリスを心配して、部屋で休むよう言ってくれたのも彼女たちだ。


 今クラリスはひとりぽつんと、部屋の中で途方に暮れていた。泥のように疲れているのに、頭が冴えて眠気がこない。何か食べたいとも思わない。弟の苦しみを目の前で見ている間は辛くてたまらないのに、離れていれば今もどんなに苦しい思いをしているだろうと想像して尚更辛くなる。だが、辛いはずの心の一部はどこか麻痺したように何も感じず、何も考えられなくなっていた。診察した医師に教えられた感染経路が、クラリスを心底打ちのめしていたのだ。


 ヴィクターが感染したのは、路上生活をしている時だった。病原体を持つシラミを媒介して感染したらしい。

 まだ幼い弟を不潔な環境で生活させ、その挙句にこんな病気にさせてしまった。クラリスは医師の言葉を聞いて頭が真っ白になった。全部私の責任だ。


 休めと言われて部屋に戻ったものの、どうやって休めばいいかも分からない。言われるがままに動く自分が機械のようで、いっそのこと全ての感情が無くなってしまえばいいとすら思った。


 扉を叩く微かな音を、クラリスは視線を手のひらに落したまま聞いた。

 部屋へ食事を運ぶと言われていた。それは何も食べようとしないクラリスを気遣ってのことであるのと同時に、至極当然の措置でもあった。患者の濃厚接触者であるクラリスが、今までと同じように大食堂を使用することはできないからだ。


 コンコン、とまたノックが聞こえる。しかし、クラリスは動かなかった。食べ物を前にしたとしても、何も食べられる気がしない。それに、ワゴンを部屋の中に入れてしまえば、たとえ手をつけなくても感染の危険が拭えないとして廃棄されるだろう。それならいっそ持ち帰ってもらうか、部屋の外に置いたままにしていたほうが、ほかの誰かが食べる可能性があるだけましだ。

 しかし、反応のない部屋の主に焦れたように、扉は許可なく開かれた。


「……起きていたのか」


 そのまま立ち去ると思われた人物は、あろうことかハリントン男爵その人だった。片手には銀製のトレーを持ち、眉を寄せた気づかわしげな表情で戸口に立っていた。

 驚いたクラリスは急いで立ち上がり……目眩を感じてふらりとよろけた。


「クラリス!」


 駆け寄ったアレクシスは、片腕で危なげなくクラリスを支えた。


「おい、しっかりしろ!」


 アレクシスはトレーを置き、両手でクラリスを抱きかかえる。力強い腕に抱かれ、下がっていた血液が全身を巡り始めた。やがてクラリスは頭の芯に熱を取り戻し、重たい瞼をゆっくりと開いた。


 ――あ……アレクシス、さま……


 深い青の瞳が温かみを帯びている。背に腕を回されたままそれをじっと見つめていたクラリスは、随分時間が経ってからハッとして身を起こした。


 ――いけない……! 病気が伝染うつってしまう!

 

「……っ」

「こら! いきなり動くんじゃない」


 逞しい身体から離れようとしてまたよろけたクラリスを、アレクシスは支えながら叱責した。なぜ、どうして、と思うクラリスを余所に、家令から絶対に接触してはならないと言われたはずの当主は眉間に皺を寄せ、肩までしかないプラチナブロンドの髪を指で梳いた。


「顔色が悪い。眠っていないんだな。食事もしていないんだろう? そんなことでは君まで倒れてしまうぞ」


 クラリスは首を横に振った。食欲がないこと、横になってもどうせ眠れないこと、アレクシスと一緒にいてはならないこと……。全部を伝えたくて、伝える術がないのがもどかしかった。


「ほら。黙っていては何も分からない」


 馬車の中でされたのと同じように、また手のひらが差し出された。どうしようかと迷ったが、複雑なことを考える気力が残っていない。クラリスは人差し指を伸ばし、アレクシスの手のひらに文字を書いた。


「……病気が伝染る、か。確かにウィンズロウ・ハウスで感染性の患者が出た場合、ハリントンの直系は感染者と濃厚接触者とは距離を置く決まりになっている。だが、俺はこの措置には懐疑的だ。そもそも俺やジュリアナのように、潜伏期間中に君やヴィクと接していた者をどう扱うか、医学的根拠を何も示していないではないか。第一、本当に重大な感染症患者と接触していたなら、ジュリアナを含めて邸内に隔離しなければ理にかなわない。下手に移動させれば感染が拡大するだけだ」


 アレクシスは憤懣やるかたない様子だったが、まだどこかぼんやりとしている紫の瞳に目元を和ませた。


「とにかく、ヴィクから病気が広がるようなことはないから心配しなくていい。これは医師にも確認済みだ。君の弟はまだ幼いせいで病気になったが、成人男性が感染する危険はほぼないと請け合ってくれたよ。俺が丸一日顔を出さなかったことを怒っていないだろうな? あれは感染を恐れたからではなく、仕事を前倒しして終わらせていたんだ。これで君一人に負担をかけなくて済む。今夜は俺がウィクに付き添うことにした。彼は見知らぬ親切な看護師よりも、見知った高慢な男爵のほうが安心するだろう。だから君は安心して、ちゃんと眠るんだぞ」


 アレクシスの言葉がじわじわと脳に染みてくる。だが同時に、恐怖に似た感情がこみ上げてきた。弟が病気になったのは自分のせいだと言わなければ。

 また手のひらに文字を書き始めたクラリスを、アレクシスは静かに見下ろした。


「……ヴィクの感染経路が、路上で生活していた時だった、医者からそう告げられた、と。それで? 君はそのことで自分を責めているのか。メルボーン邸での出来事と同じように」


 低まった声に、クラリスはびくりと肩を揺らした。上目遣いに見上げたアレクシスは眦を吊り上げている。


「感染経路が判明したのはいいことだ。今後、同じ病気にかからないよう注意できるからな。だが、精一杯ヴィクの世話をしてきた君が自分を責める材料にするのはいただけない」


 厳しい口調で言った。だが同時に、クラリスの手を両手で優しく握りしめる。


「いいか、起こった不幸を全て自分のせいだと思うのはやめろ。むしろ幸運だと思ったほうがいい。君たちは苦労の末、幸運にも俺の庇護下に入った。だからヴィクは病気になっても最高の治療を受けられるし、君が弟と離れている間は俺が付き添ってやれる。自分を責める必要は何もないんだ。そうだろう?」


 わざと怖い顔をしていたアレクシスは、躊躇いながらもこくりと頷いたクラリスに微笑んだ。そして、トレーの上の食事を目で勧める。


「さあ。明日からもヴィクの世話をしたいのなら食事をしろ。これを全部食べて、明日の朝食も摂るんだ。いいな?」


 トレーの上の銀器にはチキンスープとふわふわのパン、それに果物が乗せられている。食欲がなくても食べやすいものを用意してくれたのだ。

 考えてみれば丸一日半以上、水以外何も口にしていない。ちらりとアレクシスを見たが、食べるところを見届けるまで動く気はなさそうだ。おずおずとスプーンに手を伸ばしたクラリスは、チキンスープを口に入れた。


 ――美味しい……!


 身体中の細胞に栄養がいきわたるようだ。ごくりとスープを飲み込むと、きゅう……と腹が音を立てて鳴った。


 真っ赤になったクラリスに、アレクシスは笑いながら「腹の虫を満足させろ」と皿をずいと近づけてくる。自分が空腹だったことにようやく気づいたクラリスは、顔を赤らめながら食事を続けた。


 勢いよく、しかし上品に食事をするクラリスを満足そうに見ていたアレクシスは、デザートの果物を食べる頃になってようやく立ち上がった。


「では、俺はヴィクに付き添ってくる。いいか、君の役目は身体を休め十分な休息を取ることだ。目の下のクマが薄くならない限り、弟の側には近寄らせないからな」


 そう言いながら、アレクシスはしばらくじっとそこに立っていた。空腹が満たされつつあることで、ようやく人に見られながら食事をする恥ずかしさが蘇ったクラリスだったが、余りにも長い間見下ろされて首を傾げた。


「……そんな格好をしていたら、風邪をひいてしまう」


 風呂上りでシャツ一枚――もちろん胸当てはしっかりとつけている――の姿を見咎めたようだ。言われて初めて肌寒さを感じる。そんなことにも気づかないほどぼんやりしていたようだ。

 ちゃんと暖かくして眠ります。そう伝えようとしたクラリスの肩がふわりと熱に包まれた。アレクシスが自分の上着を脱いで、クラリスに着せかけたのだ。


 上質な生地の肌触りと、自分よりも高い体温。アレクシス愛用の香水がふわりと香った。


「食事を残すなよ。ヴィクのことは心配せず、ゆっくり眠るんだ」


 あなたのほうが風邪をひいてしまいます、とか。私はすぐに眠るから上着はお返しします、といった反応を返す前に、アレクシスはさっさと部屋を出ていってしまった。

 呆然としていたクラリスは頬に触れる衿の感触を意識しながら、言われたとおり果物を食べきった。


 トレーを返しにいかなければ。頭の片隅でそう考えながら、身体を包む熱に身を委ねる。クラリスは借り物の上着を肩にかけたまま両手で顔を覆った。


 鼻先に香る香水と上着に残る体温が、ついさっきまで側に居てくれた人をありありと感じさせる。まるで抱きしめられているようだ。

 クラリスは大きなため息をつき、手を下ろす。もう認める以外なかった。


 ――アレクシス様のことを、好きになってしまった。


 シエルハーン王家など太刀打ちできないほどの大富豪。鋭利な容姿の美丈夫で、どんな令嬢だってより取り見取りの事業家だ。

 片や自分は国を追われ、何の特技も持たず、無一文で、しかも男だと思われている、ただの居候にすぎない。


 上体を折って膝に顔を埋めた。目の奧がちくちくする。

 何て馬鹿なんだろう。

 ヴィクのことを一番に考えるべきなのに。恋愛などに現を抜かしている場合ではないのに、彼のことをこんなに好きになってしまった。


 クラリスにとって、初めての恋だった。自覚したばかりの恋心を殺すしかないと分かっているのに、ただ今だけは、疲れ切った自分を優しく包む体温を脱ぎ去れないでいた。



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