王女と従者

 正当な王位継承権者からの宣旨。シエルハーンでは王女であるクラリスよりも、弟ヴィクターの継承順位のほうが高い。ヴィクターから叔父である王弟を国王にすると国内外に宣言させれば、国民の反発を無くすことはできないまでも、考えうる最良の形で玉座を手にできる。しかし、それは事実上ヴィクターの王位継承権放棄と同義だ。簡単に承服できる話ではないが、妄想に近いそれを実現するために、王弟はどんな手を使ってくるだろうか。


「……彼女たちがルフトグランデにいることは、足取りを追えばすぐに掴めるでしょうね」

「騎士だけならまだしも、王女とまだ幼い王子を連れているんだ。どうしたって痕跡は残る。クーデター直後は王弟一派もシエルハーン国内の掌握に全力を尽くしていただろうが、連中の目的が変わったのだとしたら、今頃は血眼で二人を探しているはずだ。少なくとも二人のルフトグランデ入りは知られていると思ったほうがいい」


 当然そのつもりのアレクシスだったが、父の言葉を尊重してうなずいた。


「心いたします」

「若。先にお着換えをなさいませ。お館様とは部屋を移してゆっくりとお話しになりましたら。酒と軽食のご用意ができましたので」


 メイドから別室の用意ができたと知らされたダンカンはそう進言した。


「私は構わないが、父上はお疲れだろう。明日にしてはどうだ」


 酒を酌み交わすのはやぶさかではないが、旅装を解いたばかりでは疲れもあるだろうにと訝るアレクシスへ、ゲイリーは無造作に告げた。


「私は明日の早朝ここを発つ。できれば今夜のうちに近況を聞きたいのだが……まあ、お前さえよければだがな」

「明日の早朝!? なぜそう急がれるのです。ジュリアナも残念がりますよ。せっかくですのでゆっくりなさっては」


 母が亡くなってから邸に居つかないゲイリーだが、慌ただしいにも程がある。引き留める息子に、ゲイリーは右手でそっと胸元を押さえながら首を横に振った。


「いや。今回ウィンズロウ・ハウスに立ち寄ったのは……ライラを偲んでのことだ。彼女の気配を感じられたらそれでいい」


 ライラというのはアレクシスの母の名だ。三年前に病没した妻を、父は今も心から愛している。

 引退したら一緒に世界中を旅しよう。それがプロポーズの言葉だったらしい。結婚する前に引退後の話をするのかと笑った母は、二つ返事で結婚を了承した。アレクシスの前でその話をする母は「あんまりおかしなことを言われて、びっくりしてつい承知してしまったの」と、いつも笑っていたものだ。


 父の胸には、母の絵姿がロケットに入れられている。肌身離さず持ち歩くそれを、父は旅先でしばしば取り出すらしい。妻と交わした「一緒に世界を旅する」という約束を果たしているのだ。


 そうまで想える相手と結婚できた父は幸福なのだろう。アレクシスは羨ましく思いながらも、今回のような理由で帰宅し、そしてすぐに立ち去ろうとする父の気持ちが今ひとつ理解できないでいる。母を偲ぶ場所として最もふさわしいこの邸で、毎日を過ごせばいいのにと思ってしまうのだ。


「そう思われるのでしたら、尚更ゆっくりと滞在されればいいではありませんか」


 共に世界を旅してはいるが、生身の妻はどこにもいない。その事実に耐えられなくなった時、ゲイリーはウィンズロウ・ハウスに帰ってくる。妻と暮らした部屋で妻の気配を感じ、小さな肖像がただの絵ではなく妻そのものなのだと思えるようになって初めて、また旅立つだけの勇気が湧いてくるらしい。

 誰かを愛したことのない息子にそれを説明しても理解できないだろう。ゲイリーは内心苦笑しながら、事実だけを簡潔に述べた。


「最愛の人の気配を色濃く感じる場所で、彼女だけがいないことを突きつけられながら生活できるほど、私は強くない」


 そして、神妙な顔の息子に小さく笑った。


「そのうち分かる時がくるだろう。その時のお前の顔が見ものだな。さあ、早く着替えてこい。私がいない間、ハリントンに何があったか聞かせてくれ」



 ◆

 


 鳥の声が聞こえたのと同時にクラリスは目を開けた。

 まだ薄暗い寝室の中だ。初日は弟と一緒だった寝台も、今は別々になっている。とはいえ部屋は同じままで、目をこらせば眠るヴィクターのシルエットがぼんやりと見えた。


 ほとんど一睡もできなかったクラリスはむくり、と起き上がり、何かを確かめるように額に手を当てた。


 ――キス、された。アレクシス様に。


 心の中で呟くと、カーッと全身が熱くなる。火照る頬を手のひらで覆い、クラリスはまた寝台に倒れ込んだ。

 昨夜、メルボーン侯爵邸の舞踏会から帰る馬車の中で、アレクシスは彼女の額にキスをした。

 額だったとはいえ、家族以外の異性から口づけられたのは初めてだ。王女として参加した社交の場でも、手袋越しに手の甲へ唇を寄せられるくらいの経験しかない。

 

 みっともなく流れていた涙は驚きすぎて止まっていた。その跡を、アレクシスは指先で丁寧になぞってくれた。

 その指の熱と慈しむような優しい感触は、今もはっきりと頬に残っている。クラリスは枕を抱きしめて寝台の上でゴロゴロと転がった。はしたないとは思ったが、身体の奧がうずうずとしてじっとしていられなかった。


 気が済むまで身悶えてから、クラリスは枕を手放して仰向けになった。

 早朝の冷たい空気が火照った頬と耳に心地いい。ふうと息を吐いて目を閉じた。

 アレクシスはとても優しい。少しぶっきらぼうに感じる物言いも、クラリスの負担にならないよう気遣っているためだ。仕事の指示はいつも的確で、厳しくはあるが部下を不当に扱うことは決してない。そのうえあれほど優れた容姿をしているのに、そのことを鼻にかけることも一切なかった。


 もちろん身に着けているものは一級品で、仕立てにもこだわりはある。だが「流行の何々が」という口上で薦められた品を手に取ることは一度もなかったし、その類のものを身近に置くこともない。

 唯一の例外は妹で、流行に敏感なジュリアナの見立てた衣装や小物を強引に身につけさせられることはごく稀にあった。だが総じてアレクシスは自分が他人からどう見られているかということに興味はなく、着飾ることをむしろ避けているように見える。

 シエルハーンの貴公子たちと違うのはその点だ。美男だと評される貴公子なら当然とされる細やかな身づくろいも、アレクシスは必要最低限にしかしていない。むしろ華美に装うより心がけているのは清潔で、朝晩の二回必ず入浴し、その度に洗ってアイロンをかけたシャツに着替えている。ちなみに彼が鏡で自分の顔を見るのは日に三回だけ。それは朝顔を洗う時、髭を剃る時、そしてクラヴァットを結ぶ時である。


 ――本当に素晴らしい人。どうしてそんな方が、私にキスをしたのかしら。


 クラリスはまた顔を赤くしたが、寝台に広がる肩までの短い髪に現実を思い出した。

 そもそも自分は男として暮らしているのに、何を浮かれているのか。

 ズンっと落ち込んだクラリスは、厳しく自分に言い聞かせる。

 アレクシス様は孤児の兄弟を引き取った篤志家だ。色めいた気持ちがあるはずない。額へのキスだって特に意味はなく、きっと……子どもやペットを宥めるくらいの軽い気持ちだったのだろう。


 クラリスは今度こそ起き上がり、のろのろと身支度を始めた。

 顔を洗いながら、昨夜の舞踏会を思い返す。耳に残る管弦の音。華やかな装飾と、色とりどりのドレスに身を包んだ貴婦人たち。

 それに引きかえ、自分は化粧もせず男の身なりをしていた。


 ふわふわのタオルを手に取り、顔を拭いてから鏡を見る。

 プラチナブロンドの髪と、化粧っけのない血色の悪い肌。全体的に色彩が淡く、ぼんやりとして見える。


 ――まるで幽霊みたい。


 もし、自分が女だと打ち明けたら。ジュリアナのように美しいドレスを着て、アレクシスの前に立ったなら、彼は何と言うだろうか。


 菫色の瞳を鏡越しにじっと見つめていたクラリスは、やがて自嘲しながらクローゼットへ向かった。

 馬鹿げた想像だ。自分のやるべきことを忘れかけているとしか思えない。

 私の使命はヴィクターを護り、シエルハーンで王権を取り戻すこと。女としての自分について考えるのは、弟が成人して一人前になってから。それまで自分の幸せは封印する。亡くなった両親と……兄の想いに報いるためにも。


 頭を振って気持ちを切り替えたクラリスは、身支度を整えてから弟の眠る寝台にそっと近づいた。弟の起床時間にはまだ早い。そのため、寝顔を見てから仕事に向かうつもりだったのだ。


 微笑みながら弟の顔を覗き込み、自分と同じ色の髪をそっと撫でていたクラリスはぎくりとして手をとめた。


 ――ヴィク?


 顔が赤い。慌てて額に手を当てると、熱した鉄のように熱くなっている。小さな唇は渇き、荒い息が絶え間なく吐き出されていた。


 ――ヴィク、ヴィク! なんてこと、こんなに熱が……!


 はあはあとあえぎながら、ヴィクターは薄っすらと目を開けて姉を見た。真っ赤な頬を冷まそうと自分の手のひらを当てるクラリスに焦点を当て、小さな悲鳴を上げる。


「ね、姉さま……あ、頭が……あたまがいたいよ……」


 すぐ隣に眠っていたのに、どうして今まで気づいてやれなかったのか。


 ――どうしよう。どうしたら……。


 クラリスは唇を噛み、しかし迷う時間さえ惜しいと立ち上がった。

 助けを呼ばなくてはならない。弟を助けてくれる人を、今すぐに。

 絶対的な信頼のおける人。シエルハーン次期国王の命を預けるに足る人へ、助けを求めるのだ。


 部屋を飛び出したクラリスは、真っすぐにアレクシスの部屋へ向かった。他の誰かを頼ることなど、一瞬も思い浮かばなかった。

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