二人の「ジョナサン・ハーヴェイ」
「……失礼いたしました。まさか今夜お会いできるとは夢にも思っていなかったもので」
緩めたうえに皺になったクラヴァットは今更どうしようもないが、せめて上着だけでもとアレクシスは素早く釦を留めた。無論、ワインやクラリスの涙で作ったしみには気づかれているだろう。アレクシスは生まれてこのかた、父の前で隠し事ができた試しがない。
「元気そうでなによりだ。メルボーン邸の舞踏会ならさぞ賑やかだっただろう。侯爵夫妻に変わりはなかったか」
何もかも承知していると言いたげな父を、アレクシスは胡乱な目で見返した。ゲイリーの情報収集能力は尋常ではない。引退して三年経つが、父の影響力は未だ現役である。
「……はい。お二人ともお元気でした。元帥閣下からは父上のことを尋ねられましたが、船旅の途中だと答えてあります。実際にそう思っていましたので」
アレクシスは父の手にある台帳がハイトブリッジのものであることを見て取り、しぶしぶながら執務机の椅子に座った。過去の記憶を思い返しても、父の在室中に自分がこの椅子に座ったことはなく、居心地の悪いことといったらない。
「それで、気になることとは」
前置きを省いて切り出した。この手のことはさっさと済ませるに限る。
「ジェムズ・サンのジェイソンから連絡があった。店を閉めることになったと」
「ジェイソンが? どうにかしてくれと父上に泣きついてきたのですか」
ジェイソンとは、ゲイリーが懇意にしていた老舗テーラー「ジェムズ・サン」の前オーナーだ。僅かに声のトーンを低めたアレクシスに、ゲイリーは鷹揚な態度で応えた。
「型紙を処分するのが忍びないので、ウィンズロウ・ハウスに届けてもいいかという伺いだ。彼も長く職人の世界にいた。彼らの誇り高さを知っているだろう。代替わりした途端に店を閉めることになったからといって、私に縋るような真似はしないさ」
アレクシスは慎重な態度を保ったまま、父の言葉をじっと待った。ゲイリーはそんな息子の様子に短く笑う。
「そう警戒するな。お前は当主としてよくやっている。これは試験ではない」
気安く言われてなお、アレクシスは疑いを拭いきれずにいた。幼い頃から父に課せられてきた課題の数々を思えば、うかつに信用しては痛い目をみる。
だがゲイリーは息子の視線など知らぬふりで、もったいつけることもなく話を続けた。
「天海の稀布と闇仲買人についてだが、お前の見立てどおりウィンシャム公の指図のようだな。だがハリントンに対する嫌がらせというよりも、手っ取り早く資金を調達するのが目的だったようだが」
アレクシスは気色ばんだ。
「私の見立てを父上にご説明した記憶はありませんが」
「だが、そう思っていたんだろう?」
確かにそのとおりだ。父の洞察力に驚くのは何もこれが初めてではない。アレクシスは心の中でため息をついたが、おそらく父はそれにも気づいているだろう。
「……ウィンシャム公の母方の祖母が、天海の稀布を産出するサノイ国の出身でした。その伝手もあり安価に手に入ると、仲買人たちはあちこちで触れ回っているようですね。どうも最初は入手ルートを秘すはずだったのを、ウィンシャム公に認知症の症状が出始めたために見切りをつけたのか、今は堂々と公の名を出して偽物を流通させようとしています。父上の仰るとおり、短期間に荒稼ぎするつもりなのでしょう」
ゲイリーは息子の言葉を聞き、何か考えるように指先で口髭を弄った。アレクシスの趣味ではないが、亡き母はこの口髭を気に入っていたようだ。おかげで口髭は前ハリントン男爵の代名詞のひとつとなっている。
「ふむ。で? 市場に出回った布はどうするのか」
「これ以上の被害をださないために買い占めを指示しました。闇仲買人の素性が割れ次第、まとめて検挙するつもりです」
「それはもちろん、相当な資金を投じてのことだな」
「ええ、金に糸目はつけません」
「そんなことをして事業に悪影響を及ぼさないのか?」
アレクシスは呆れたように片眉を上げた。
「これは驚いた。ハリントンの庭で
ゲイリーは微笑むことで息子の意見に同意し、いきなり話題を変えた。
「ときに、孤児を二人拾ったらしいじゃないか」
きたぞ。その質問を予想していたアレクシスは、できる限り何気ない素振りで応えた。
「はい。ドミニクの面倒を見ている時に少々縁がありまして。ジュリアナがどうしてもと言い張るもので仕方なく」
「しかも、一人はお前の従者にしたと」
「ええ。なかなか見どころのある子で。慣れない仕事だろうに、何かと助けてもらっています」
事実を述べただけなのだが、ゲイリーは椅子の背にもたれながらにやりと笑った。
「ほう。シエルハーンの王族を従者にか。しかも、口のきけない王女を。ああ、騒ぐんじゃない。私の言葉が間違っている時だけ反論してみろ」
揶揄う口調が腹立たしい。アレクシスは部屋の隅に立つダンカンを睨んだ。家令がゲイリーに心酔しているのは周知の事実だが、現当主の秘密を漏らしていい理由にはならない。
だが、ゲイリーはぴんと立てた人差し指を左右に振ってそれを否定した。
「おいおい、濡れ衣を着せるな。バリーは何も言わなかったぞ。終始何か言いたげではあったがな」
「では、なぜ」
「ジュリアナが可愛がっているというヴィクターと夕食を共にしたんだ。彼のアクセントはこの国のものではないし、食事のマナーもしかりだ。アクセントにしてもマナーにしても、一番近いのはエーベルのものだな。それに加えてあの特徴的なプラチナブロンドの髪と紫の瞳……姉のほうは彼をそっくりそのまま大きくしたような姿なのだろう? 年の頃は政変が起きて生死不明となっている、シエルハーン王家の王女と末の王子にぴったりだと、そう推測した」
自分が気づいたことを父が見逃すはずはない。だがアレクシスは釈然としなかった。クラリスとヴィクター二人が並んだ姿を見て、アレクシスはその素性に確信を持った。しかし、父はまだクラリスを見てもいないのだ。それなのに、引き取った少年二人をシエルハーンの王女と王子だと、こうまで自信たっぷりに断言できるものだろうか。
息子からまたしても疑いの目で見られたゲイリーは、思わず声を上げて笑った。
「白状するよ。実はジュリアナから聞いたんだ」
「ジュリアナが? まさか!」
アレクシスは驚きの余り、表情を取り繕うことも忘れて叫んだ。妹がクラリスたちの素性を知っていて、それを兄の前で完璧に隠していたというのなら、それに気づかない自分の目は節穴だ。
だが、ゲイリーはまたあっさりと種明かしをした。
「ジュリアナが知っていたのは、フレディと名乗る少年がじつは女性だということだけだ。シエルハーンの王族であることには気づいていないだろう」
アレクシスは背から力を抜いた。事はクラリスたちの安全に関わる。秘密を知る者は一人でも少ないほうがいい。
それにしても、ジュリアナはクラリスを男だと紹介されながら、先入観にとらわれることなく本当の性別を見抜いたことになる。昔から妙に敏いところのある妹だが、相変わらず勘が働くものだ。アレクシスが感心していると、真顔になったゲイリーがさらりと言った。
「クーデターを起こした王弟が行方不明らしい」
シエルハーンの件だ。アレクシスは鋭い視線で父を見つめ、黙ったまま続きを促す。無意識のうちに取った当主としての仕草に微笑ましさを感じ、ゲイリーは口髭を触ることでそれを誤魔化した。
「……元々無理のあるクーデターだった。シエルハーン王家は国民の支持を得ていたと聞く。民から慕われていた王を、実弟が弑逆した挙句に玉座へ就く――。平和な小国の民には理解しがたい暴挙だろう。懸命なプロパガンダで国土拡大のためにやむなく蜂起したのだと主張していたが、結局は受け入れられなかったようだな」
「ええ。抱き込んだはずの軍部から、反旗を翻す者が続出しているとか」
「らしいな。結果的に、身の危険を感じた王弟は国を捨てた。本人にとっていくら正当な理由があるとはいえ、こんな相手を受け入れてくれる国はそうないだろう」
アレクシスは、家令の報告と齟齬のない父の話に深くうなずいた。
「もしあるとしたら縁のあるエーベルでしょうが、王弟はエーベル王家が重視する王族としての見た目――神の恩寵である髪と瞳を持っていません。エーベルで丁重な扱いを受けるとは考え難いですね」
「そうだ。シエルハーンが政治的混乱の最中にあり、誰が国の舵取りをするか明確になっていないことで、幸か不幸か犯罪者として国際手配されるには至っていないようだが……王弟の立場で見れば、選択肢は少ないぞ」
アレクシスは押し黙り、しばらく考えた後で口を開いた。
「正当な王位継承者を探し、自身を王位に就けると宣旨させるのでしょうか」
ゲイリーは椅子の背にもたれながら、組み合わせた両手を腹の上に乗せた。
「ああ。傀儡にしようにも、もはや王弟がシエルハーンで宰相のような地位に就くことはできないだろう。となれば、後は正式な手続きで玉座を狙うしかない」
「そんなことが可能でしょうか」
「出来るかできないかではなく、もうやるしかないところまで追い込まれているんだ。いいか、二人には今まで以上に注意を払え。王弟側が王女たちの行方をどこまで掴んでいるかは分からないが、接触してくる前提で考えておいたほうがいい。成り行きとはいえ縁あって引き取ったんだろう? 最後まで面倒を見てやることだ」
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