第五章
ゲイリー・ジョナサン・ハーヴェイの帰還
邸内の様子がおかしいことに、アレクシスは当然気づくべきだったのだ。
舞踏会から戻ったアレクシスは、しかししばらくの間馬車から降りられなかった。ベンジャミンとの騒動を自分のせいだと責めるクラリスが、なかなか泣きやまなかったからだ。
泣くだけ泣いて気が済んだのか、馬車を降りたクラリスは恥ずかしそうにうつむいていた。自分の涙でアレクシスの上着を汚してしてしまったことには焦っていたが、元々ワインで汚れていたのだから問題ないと言うと、少しはホッとしたようだった。
自分がきっかけで騒動になってしまったと詫びていたが、本当のところは国を出てから張っていた気が緩んだということだろう。クーデターまで自分のせいだと思っている節があったから、口では「泣くな」と言ったアレクシスも、この際思い切り泣かせてやるつもりではいたのだ。しかし。
――危なかった……。
クラリスを部屋へ送り届け、食事を取れなかった彼女のために軽食を用意するよう指示をしたアレクシスは、ワインの匂いが残る上着の釦を外しながら書斎へ向かった。寝室に直行しなかったのは頭を冷やしたかったからだ。クラリスと一緒にいることで混乱した頭を。
涙を流すクラリスがいかに頼りなく儚げだったか。少年従者のなりをしているにもかかわらず、頬を流れる涙がどんなにきらめいていたか。細い肩を震わせ、嗚咽を堪える彼女の潤んだ菫色の瞳がどんなに美しかったことか。
アレクシスは持てる力の全てを使って、彼女の困難を取り除きたかった。クラリスを傷つけ悩ませるもの全てが憎く、もし許されるのならそのひとつひとつを残らず焼きつくしたいと思い詰めるほど、その感情は手に負えなくなっている。
実際、涙のきっかけを作ったベンジャミンのことは更に追い込むと決めているし、彼女を一番悩ませているシエルハーンの件についても、内政干渉として国家間の問題に発展しさえしなければ、もっと大胆に関与しただろう。
クラリスのためにできることが余りにも少なすぎて、歯がゆくてたまらない。本当なら王女として美しく気飾らせ、男爵家の客室などではなく、もっと相応しい住まいを用意すべきなのだ。
もちろんヴィクターは王子として遇してやらなければならない。そうやって二人を大切に護っていれば、クラリスが失っている声もいずれ取り戻せるだろう。アレクシスにはそれを実現するだけの権力と資金がある。だがそれは二人の事情を知っていると明かしてからの話だった。
いっそのこと、全てを知っていると言うべきだろうか。
ほんの一瞬だけそう思ったアレクシスは、軽いため息とともにその考えを追い払った。
クラリスは相変わらず「フレディ」として振る舞っている。従者という仕事の性質上、朝から晩まで一緒に過ごしているというのに、自分の素性どころか性別すら偽ったままだ。
つまり、彼女にとってアレクシスは未だ秘密を打ち明けられるに足る人物ではないということなのだろう。それならば彼にできることはただひとつ、二人を慈しみ護りつつ、シエルハーンの動向を注意深く見守ることだ。時がくればすぐ対処できるように。
アレクシスは思考のある部分から目を逸らしていることを自覚しながら、それを正そうとはしなかった。それを直視してしまえば、あり得ないほど不都合なことに気づいてしまいそうだった。
馬車の中で抱きしめたクラリスはとても小さく、愛おしくて……アレクシスはいつもの強い自制心をほんの少しだけ忘れた。胸に押し寄せる感情のまま、彼女を慰め、泣きやませるためだと言い訳しながら、たった一度だけとはいえ額に口づけたのだ。
結果的にそれは功を奏したらしく、びっくり顔のクラリスから涙はそれきりとまり、無事に馬車を降りることができたのだが。
女性に対して常に適切な距離を保っていたアレクシスが、いつもの振る舞いをほんの少しとはいえ逸脱するのは初めてのことだ。彼は自分の行いを慰めのためだと正当化したが、そうでなければ彼女が――クラリスが彼にとって特別な存在だと認めることになってしまう。
――特別な存在? ……馬鹿な。十も年の離れた、しかも小国とはいえ相手は王女だぞ。
そう、彼女は二十歳のジュリアナより二歳も年下だ。そのうえ男爵にすぎない自分とは身分が違いすぎる。
そう断じたアレクシスは、妹という言葉に反応した。
――妹。そうだ。妹のようなものだ。だから放っておけず、これほど気にかかるに違いない。
考えに耽っていたアレクシスは、使用人たちがどこか浮足立っていることにまったく気づかなかった。不可解な心の動きに決着をみて、機嫌をよくしたアレクシスは片手でクラヴァットを緩めながら書斎の扉を開き、書架の前に立つ人物を見て驚愕の表情を浮かべた。
「サー!」
当主と家令以外触れることを許されていない台帳に目を通していた男は、アレクシスの叫びに片眼鏡をゆっくりと外した。
「ハリントンの当主はお前だ。隠居した私に敬称をつける必要はない」
そう言ってアレクシスの父ゲイリー・ジョナサン・ハーヴェイは執務机の脇の椅子――普段クラリスが座っているもの――に腰を下ろした。二人は顔も背格好もよく似ているが、ゲイリーの年齢を重ねた渋みが息子とは違う魅力を醸し出している。
隠居という年寄りじみた言葉とは最も遠い場所にいる父親に向かい、眉間に皺を寄せたアレクシスは尋ねた。
「いつルフトグランデに戻られたのです。手紙には今頃船に乗っている予定だと書かれていたはずですが」
「悠々自適の隠居の身である私にとって、予定などあってないようなものだ。少々気になることがあって戻ってきたんだが――」
ゲイリーはクラヴァットを緩め、上着の釦を外した息子を上から下までじっくりと観察した。
「いつからお前はそんなだらしない格好を好むようになった。それとも最近のルフトグランデでは、そんな出で立ちが流行っているのか?」
アレクシスに紳士の装いを教え込んだのはゲイリーだ。そして、彼は世間で一流の審美眼を持つとされている。今夜父親の前に立つと分かっていたら絶対に着替えていたであろうアレクシスは、その皮肉に頬を赤くした。
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