従者の涙と手のひらの文字

「殿下にも困ったものだ。あんな場所で戯れを口にされては断ることもできないし、皆も本気にしてしまうだろう。レディ・メルボーンは以前から、うちをもっと貴族社会で目立つ存在にしたいと考えていたようなんだ。それらしきことを何度か言われたこともあるが、ハリントンは下位貴族であることに誇りを持っている。だから迷惑だとはっきり断ったんだが、まだ諦めていなかったようだな。メルボーン卿に連絡して、これ以上の画策はやめるよう言ってもらうよ。こんな調子では、これ以上うちに力をつけさせたくないと考える連中がまたぞろ湧いて出て、一層面倒なことになる」


 アレクシスは馬車の中で大げさにため息をついてみせた。


「それにしても、ウィンシャムに一泡吹かせられたのは痛快だった。見たか、殿下の登場で目を白黒させていたあの姿を。あれほど恥をかかされれば、当分社交界に顔を出すことはできないな。元々、この舞踏会に参加を決めたのは、あいつに釘をさすのが目的だったんだ。それは十分に果たすことができた。…………だから君は、そんな顔をしなくていいんだぞ」


 気づかわしげに言われ、クラリスはぎこちない笑みを浮かべた。

 王太子が去ってから、アレクシスは招待客からわっと取り囲まれた。クラリスに話しかける者もいたがそれは少数で、ニコラスに至っては完全に人の輪から弾き出された格好になっていた。屈辱からか顔を紅潮させていたが、まあそれは仕方のないことだろう。


 口々に浴びせられる称賛の言葉に、アレクシスはごく控えめに応じていた。そしてもみくちゃにされながらもどうにかその場を脱し、今ようやく帰路についたところだ。


 クラリスが浮かない顔をしているのは、自分の情けなさにほとほと嫌気が差したからだ。

 彼女はアレクシスがあんな風に衆目を集める形でニコラスを貶めるつもりがなかったことを知っている。本当ならもっと、ずっと穏やかに釘をさすはずだったことも。

 男爵位に留まっているとはいえ莫大な富を持つ当主アレクシスと、公爵の息子とはいえ二男にすぎず、自ら生計を立てるかどこかに婿入りするかしかないニコラスでは、ただでさえアレクシスのほうが圧倒的に勝っているのだ。それをあのように公衆の面前で相手の非をあげつらう真似をすれば、たとえニコラス側が悪いにしても「爵位の低い者が、勝てると分かった勝負で公爵家の子息を殊更に貶めた」と言い出す者がでてきかねない。そしてそれを口実に、アレクシスを攻撃する輩がでる可能性もあった。


 それは明日かもしれず、また一年後かもしれない。いつ爆発するとも知れない爆弾を抱えさせてしまったようなものだ。どちらにしても常に隙なく振る舞い、本気で相手を潰すつもりならもっと周到に自分が関与した痕跡を完全に消し去ったであろうハリントン男爵としては珍しい悪手だった。


 それを引き起こしたのは、間違いなく自分だ。落ち込むクラリスを見かね、アレクシスが慰めの言葉をかけるのもますます彼女の気持ちを沈ませた。


「ほら」


 俯くクラリスの前に大きな手のひらが差し出される。何のことかと問うように顔を見上げれば、やや口角を下げたアレクシスがもう一度ぐいと手を突き出した。


「言いたいことがあるのなら、ここに書けばいい」


 ぱち、と瞬いてアレクシスの顔を見たクラリスは、自分の手などすっぽりと包んでしまえるほど大きな手のひらに視線を落とした。

 手帳を失くしてしまったことを知っているのだろうか。クラリスはもう一度アレクシスの顔を見上げ、そして差し出されたままの手を見た。

 やがてクラリスはおずおずと右手の人差し指を伸ばしたが、それだけでは何となく失礼な気がして左手を添えた。アレクシスの手を下から支えるようにそっと当てる。


 何を書けばいいだろう。視線だけを上げてちらりと顔を盗み見てから、皮膚の厚い骨ばった手を見下ろす。そしてゆっくりと、指先で文字を書いた。


 ――もうしわけ ありませんでした


 謝罪を求められているわけではないと分かっていても、詫びずにはいられなかった。一文字一文字が胸をちくちくと刺す。


「……なぜ謝る。俺は望みどおりの結果を得た。謝る必要などない」


 ――わたしがもう少し うまく立ち回れていたら こんな騒ぎにはならなかったのに


「君はセリーナ嬢の介抱をしていたんだろう?  そして彼女に飲み物を持っていこうとして、あいつとぶつかってしまった。それで誤ってグラスのジュースをこぼし、奴の袖を濡らした。俺の言ったことに何か間違いがあるか?」


 フルフルと首を横に振る。顔を上げなくても、アレクシスが優しく自分を見つめているのが伝わってくる。

 

「なら問題はないさ。むしろ誇っていい。よくやったな。いっそのこと、グリーンハウ=スミスにはもっと派手にジュースをかけても構わなかったんだぞ。そうだ、それこそ頭からかけてやればもっとスッキリしただろうに。今度会った時には、パンチボウルごとあいつ目がけてひっくり返してやることにしよう」


 どうにか気分を軽くさせようと、冗談混じりに言ってくれるのはとても嬉しい。だけど……。クラリスはまた首を横に振った。そうじゃない。私が後悔しているのはそのことじゃなくて、もっと他の、根本的なことで……――。


 ――役に立たなくて ごめんなさい


 今日の舞踏会にはアレクシスが一人で出席するというのを、無理やりついてきたようなものだ。ダンカンから頼まれた、ニコラスとの対面をできるだけ穏便なものにするという役目も果たせなかった。穏便どころか、結局自分のせいであんな派手な騒動にまで発展させて。

 そもそもあの頼み事だって、自分を外に連れ出す口実のようなものだ。だってダンカンはいつもアレクシスに向かって言っていたではないか、気晴らしにどこかへ連れて行ってはどうかと。ジュリアナの意向も働いているとはいえ、何度も繰り返されていた会話だったのだ。


 路地裏に打ち捨てられても仕方のなかった自分たちを救ってくれた恩人に、少しでも恩を返そうとした結果がこれだった。

 衣食住なに不自由なく整えられ、弟には家庭教師までつけてもらっている。仕事として与えられるのは簡単な書類整理くらいで、賃金に換算したら食事代にも足りないくらいだ。


 ――何一つ 満足にできていないのに 恩を返すどころか 迷惑ばかりかけてしまって ほんとうに ごめんなさい


 鼻がツンと痛くなって、目の奧が熱を持つ。文字を書く指先が涙でぼやけた。

 何もできないくせに、どこまでも出しゃばっている自分が滑稽で、惨めで、情けない。だから兄様を見殺しにした挙句、騎士ともはぐれて、ヴィクを飢えさせてしまうのだ。

 何が「自分で路を選択する」だ。結局運がよかっただけの、全部他人におんぶにだっこで暮らしているだけではないか。

 自分が助かったのはヴィクを護るためだったのに。それすら満足にできない自分が、恩返しまでできると思うなんて思い上がりもいいところだ。


 グッと奥歯を噛んだ。泣いては駄目だ。こんな、仕事も満足にできない従者が失敗を理由に泣き出すなんて、本当に最悪だもの。


 クラリスは初めて、喋れないことをよかったと思った。今声を出せば、自分はきっと泣いてしまう。


「……泣くな」


 クラリスは驚いてサッと顔を上げた。ぼやけた視界の先の整った顔は、心配そうに眉を寄せている。


「役に立たないなんてことはない。君がうちに来てくれたおかげで、邸は明るくなった。ジュリアナはヴィクの世話をするのを楽しんでいるし、ダンカンはいつも機嫌がいいから、他の使用人たちは喜んでいるよ。それに私も――」


 アレクシスはそっと手のひらを返し、両手でクラリスの小さな手を包んだ。白く、細い手だ。ウィンズロウ・ハウスにやってきてから、荒れた指先は元の滑らかさを取り戻していた。


「君が……君とヴィクが側にいてくれて、とても嬉しい。迷惑だなんて思っていないさ。だからそんな顔をして、泣かなくていいんだ」


 クラリスの下唇が震え、目尻からぽろりと涙が零れた。


「馬鹿だな。どうして泣く。君はちっとも悪くないし、俺は君のおかげで寝起きがよくなり、バリーだって助かったと言っていただろう。それなのに君はそうやって自己憐憫に浸るつもりなのか。俺の従者ならいつだって堂々と胸を張っていなければならないんだぞ。さあ、俺の命令を聞くんだ」


 叱る口調で言いながら、声はどこまでも優しくて、クラリスの涙腺を刺激する。命令だと言われてどうにか涙をとめようとしたが、一度零れた涙は堪えようがなく次々と溢れ続けた。

 

「ああもう……泣くなと言っているのに」


 指の背で涙を拭われたが、新しい涙が幾筋も頬を伝い乾いた指を濡らしていく。クラリスは大きくしゃくりあげ、声の出ない口を両手で覆った。


「頼むから、もう泣くな」


 ぐいと抱き寄せられ、頬に高価な上着の布地が当たる。心安らぐアレクシスの香水と、ニコラスからかけられたワインの匂いが入り混じり、それが余計にクラリスの涙を誘った。


 乗り心地のよい馬車の中に、泣きじゃくる吐息と車輪の音が響く。メルボーン侯爵邸から男爵邸までは馬で十分あまり。馬車ならもう少しかかるだろう。二人がウィンズロウ・ハウスに着くのは、まだしばらく後のことだった。




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