護衛騎士ノエル・キーツ

 クラリスは昼下がりの庭園にいた。


 ウィンズロウ・ハウスの敷地は広大で樹木が多い。庭師とその弟子たちによって美しく保たれた庭園の中には、季節を問わず花を楽しむためだけではなく、珍しい果物を育てるための温室まで備わっていた。


 その温室には季節外れのぶどうやパイナップルが生っており、食欲の落ちたヴィクターを喜ばせている。母国でもこんなに贅沢はしたことはないというほど二人は大切にされていた。


 カサ、とクラリスの足元で落ち葉が音を立てた。入念に掃除された庭の木の葉は、庭師の目を盗んで風が運んできたのだろう。クラリスは地面の上の赤く色づいた葉を指先でつまみ、くるくると回しながら秋薔薇の咲くローズガーデンへ歩いていった。


 ヴィクターは随分元気になった。軽症だと診断されてはいたが、熱に浮かされ苦しむ姿に、クラリスは何度代わってやりたいと思っただろう。しかし今は病状も落ち着き、笑顔も見られるようになった。それも全ては医師や看護人を手配してくれたハリントン男爵家の――アレクシスのおかげだ。


 これから冬を迎えるというのに芝生は青々としている。クラリスは美しく柔らかな芝生を踏みしめながら、アレクシスのことを考えていた。


 自分の気持ちを自覚して以来、クラリスの心は乱れたままだ。

 アレクシスの傍にいたい。でも距離を置かねばならない。

 心は振り子のように揺れ動き、クラリスを悩ませた。唯一の救いは看護をアレクシスと昼夜で交代しているため、接触が最低限で済むことだけだ。

 だが顔を合わせるごく短い時間でさえアレクシスは何かとクラリスを気遣い、細やかな配慮を見せている。こうやって休憩時間を作り、庭を散策するよう勧めたのもアレクシスだ。医師の助言を受けてのことではあるのだが、看病に必死になってしまうクラリスの健康を思いやってくれている。


 クラリスは緑の多いローズガーデンの一角で足をとめ、クリーム色の花びらにほんのりとピンクが混ざる可憐な薔薇の前にしゃがみ込んだ。

 深紅の薔薇も美しいが、クラリスはこの淡い色合いの秋薔薇が大好きだった。顔をそっと寄せて香りを楽しむ。春薔薇とは違う、控えめな芳香が鼻腔をくすぐった。

 全然違う匂いなのに、なぜかアレクシスのことを思い出す。なぜだろうと考えて、自分にとって好ましい香りがアレクシスと結びついているのではないかと思い、ひとりで頬を熱くする。


 ローズガーデンはウィンズロウ・ハウスの広大な庭園の一番奥に位置している。花の少ない今の季節は、ひと気がなく考え事をするのにぴったりの場所だった。

 ここ数日、クラリスはどうにかしてルフトグランデから出られないかと考えていた。

 アレクシスの傍にいると、自分の想いがどんどん育っていくのが嫌でも分かる。

 容姿端麗で資産家の男爵家当主は、看護師たちの間でも噂の的だ。看病の合間の噂話はヴィクターの病状が落ち着いた証拠でもあるのだが、クラリスはそれを聞くのが苦痛でしかたなかった。


 彼の名前が話題に出れば、クラリスの全身は耳になる。献身的に弟を励ます様子を知ればそれを想像して胸が温かくなり、また看護師に対して彼が行った些細な親切に嫉妬したりする。


 そう、嫉妬だ。クラリスはその不快な感情を悟った時、大きな衝撃を受けた。

 嫉妬。王女として生まれ、今まで異性を愛したことのないクラリスにとって、初めて経験する感情だ。

 誰かがアレクシスのことを褒め、うっとりと称賛する姿を見ただけで苦しくなる。あなたたちより私のほうがずっと、彼のことをよく知っていると叫びたくなるのだ。そんなことを言う権利など微塵も持ち合わせていないのに。


 分かっている。アレクシスはいつもどおり女性に対して礼儀正しく接しているだけだ。

 喋れないクラリスに彼女たちが同意を求めることはなく、そもそも患者の「兄」でしかないクラリスが、女性の噂話に興味を示すとは思われていない。ひとりで胸を噛む嫉妬を持て余すしかなかった。


 それなのに彼が病室に来る時間が近づくと、クラリスはそわそわと落ち着きをなくした。ヴィクターから「どうしたの?」と怪訝な顔で見られるほどだから、傍目にもいつもとは違って見えるのだろう。彼が近くにいるだけでどうしようもなく胸の鼓動が高鳴り、どんなに表情を取り繕っても頬が赤くなるのを止められない。


 でも、アレクシスにも責任があると思う。クラリスは眉間に皺を寄せ、ピンク色の唇をほんの少し尖らせた。彼はいつも病室に入るなり部屋の中をサッと見回し、クラリスを見つけるとすぐに笑顔になる。彼女の体調を気遣い、指先で顎を持ち上げてしげしげと顔色を観察するのはいいほうで、ことあるごとに頭を撫でたり頬に触れたりするのだ。


 尤も、彼は単に子どもをあやしているくらいにしか思っていないのだろう。何と言ってもクラリスは十六歳の「少年」なのだから。


 クラリスはフーッと息を吐き、両手を合わせて鼻と口を覆った。

 アレクシスの傍にいると嬉しい。でも、同じくらい辛い。

 こんなに好きな人を目の前にして、どうやって恋心を殺すことができるのだろうか。

 

 ――もし、アレクシス様に本当のことを打ち明けたら……


 シエルハーンの王女であること。両親の死を目にしたこと。兄からヴィクターを託されたこと。それら全てを、もしアレクシスに話したら。


 ――嘘をついて騙していたことは……誠心誠意お詫びをすれば分かってくださると思う。でも、事情を知れば大金を使って私たちを国へ戻そうとするのではないかしら。いいえ、それだけじゃない。ヴィクが王位に就くための支援までしようとなさるわ。あの方はお優しいから、私たちのことをきっと見捨てられないもの。


 クラリスの予想は当たっていると言えるだろう。現にアレクシスは二人が無事に国へ帰る方法を模索しており、その後は現地で何等かの事業支援をする心づもりで準備を進めていたのだから。


 ――そんなの、絶対にだめ。ただでさえお世話になりっぱなしなのよ、これ以上ご迷惑をおかけする訳にはいかないわ。


 もう少しクラリスが世慣れていたなら。例えばここルフトグランデで暮らす貴族令嬢であれば、想い人からの支援を有難く受け取ったかもしれない。貴族であっても自由恋愛が容認されつつあるルフトグランデでは、クラリスと同じ年頃の令嬢でも複数の紳士たちと恋愛遊戯を繰り広げることが珍しくない。そして慎重に相手を見極め、最も条件のよい相手と結婚するのだ。

 だが、外交がさほど活発ではない小国の王女として育ったクラリスは、恋愛に対して潔癖だった。恋心を金銭に換算するような気がして、初恋の相手に負担をかけることはできないと心に決めていた。


 ――どうにかして自力で国に帰りたい。そして、国内の支援者たちを取りまとめ、ヴィクターを王位に就けることができたなら……


 ハリントン男爵家に引き取られてから、クラリスは仕事をするアレクシスをすぐ傍で見てきた。各国で展開する事業についての報告を聞き、政治情勢に対して考察する。プリズムのように変化する彼の思考過程は実に見事で、論理的で無駄がない。つまり、クラリスは願ってもいない一流の教師から経済学と国際政治を学んでいるようなものなのだ。

 それに加えてアレクシスが目を通し終わった新聞を読み、断片的ではあるが母国の状況も把握している。叔父は未だ玉座を手にしていない。むしろ、軍部を中心とした王弟派は瓦解しつつあるようだ。

 

 ――それならまず私が国に帰って、ヴィクが……正統な王位継承者が生きていることを宣言しなくては。そして、危険がなくなってから、ヴィクを迎えに来ればいい。


 しかし、護衛騎士たちの力を借りてさえルフトグランデ入りは困難だった。たったひとりで国境を超えるのは現実的ではない。


 ――ああ、お兄さまがいてくださったら……。


 言っても詮無いことを心の中で呟いた。兄のルーカスがいてくれたなら、クラリスの悩みはたちまち解消されるだろう。王太子として生まれ育った兄は進取の気質に富んでおり、各国の情勢にも通じている。おまけに剣の腕も優れていて、留学したら護衛は必要ないと冗談を言うほどだったのだ。

 昔からどんな時も妹弟を導いてくれた兄だ。ヴィクターも兄を慕っている。だからこそクラリスはいつか結婚してからも、弟と一緒に兄を助けていくと決めていた。


 クラリスはため息をついた。弟のためと言いながら、実はアレクシスと距離を置くために出国したいという、利己的な願いに気づいているからだ。


 彼の傍で、ただ自分の想いが育っていくのを見ているくらいなら、大義名分を得て国に戻りたい。

 これほどの恩を受けていながら、後ろ足で砂をかけるようにして出ていくのがどれほど恩知らずで無礼なことか。それを分かっていてなお出国を望むほど、クラリスは深く彼を愛してしまっていた。


 うつむくクラリスの頭上に影が差す。誰か来たのかと顔を上げたクラリスは驚愕に目を見開いた。


「こんにちは。秋薔薇はどこか物悲しい雰囲気を持っていますが、長持ちするものが多いんですよ。よろしければお切りしましょうか。どうぞお部屋にお持ちください」


 庭師の姿で話しかけてきたのは、命懸けでクラリスとヴィクターを護ってくれたシエルハーンの護衛騎士、ノエル・キーツだった。

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