侯爵家の舞踏会⑤
ウィンシャム公の体調不良説はもちろん真実だ。厳秘とされているはずの情報が漏れたことに動揺し、不利を悟ったベンジャミンは話題を変えることにしたようだ。頬を引きつらせながら表情を取り繕った。
「久しぶりだなハーヴェイ。社交界から随分長い間遠ざかっていたらしいが、元気だったか?」
「ああ、おかげさまで。君も元気そうだな。気になるのはお父上の――」
「それより! 切れ者で知られる男爵家の家令は引退でもしたのか」
「バリーなら相変わらずだ。達者すぎて私などいつまで経ってもひよっこ扱いだよ。初代ジョナサン並に長生きするというのが彼の口癖でね。……で? うちの家令がどうかしたのか」
アレクシスはごく穏やかに、微笑みすら浮かべてそう返したのだが、ベンジャミンはなぜか剣の切っ先を突きつけられたように感じてごくりと唾を飲んだ。
「……後ろにいるのはお前の使用人なんだろう。見ろよ、そいつのせいで俺のレースは台無しだ。古くからの知り合いだからこそ忠告するが、碌にしつけもできていない者を連れまわすのは家門の恥だぞ。そんな子どもを雇うほど人材不足だとは知らなかったよ。何ならうちの者を紹介してもいいんだが、使用人の指導もできない家令なら結局は舐められるだけだと思ってな。どれほど優秀で鳴らした家令でも、老いには勝てないということか。……戻ったら乗馬用の鞭を使ってみるといい。そいつにも、家令にもだ」
後ろにいるクラリスの肩がピクンと揺れた。アレクシスは冷静な目でそれを見ていたが、次にオレンジ色に染まったレースを見下ろし、ようやくベンジャミンの顔を見返した。
「言うまでもないことだがうちの家令に過失はないし、使用人の不始末は全て私の責任であって、他の誰のせいにすることもない。その袖については私の従者が失礼をした。心から詫びるよ。よければ弁償させてもらえないか。そのレースはエーベルのレースメーカーのものかな? ちょうどサビーヌ・ホームのレースを取り寄せたところだ。明日にでも君の手元に届くよう手配しておこう」
アレクシスの言葉に辺りはどよめき、女性たちは一斉に扇の後ろで言葉を交わし合った。
ルフトグランデを含む大陸一帯で手作りのレースは爆発的な人気となっている。その中でもレース発祥の地と言われるエーベル製のものは特に珍重され、周辺諸国でも奪い合いの様相を呈していた。
余りにも価格が高騰したため、エーベルはレースの輸出に規制をかけたほどだ。通貨の国外流出を懸念した各国は自国での生産に力を入れたが、技術者の育成は一朝一夕にはいかない。ルフトグランデでも流行に敏感な貴族たちは美しいレースを手に入れることに血道をあげていた。
そのエーベル産レースの中でも最も美しく、格式があるとされているのが修道院サビーヌ・ホームのレースである。
厳格な教義を忠実に守ることで知られるサビーヌ・ホームでは院長ほか数人の尼僧しか外部と接触せず、修道院内に何人の尼僧がいるのかすら明らかになっていない。還俗を許されていないため、院内に伝わるレース編みの技法は事実上門外不出となっており、まさに「神秘のベールに包まれた」レースメーカーとして知れ渡っていた。
当然そのレースを入手したいと望む者は多いが、元々サビーヌ・ホームのレースは尼僧が儀式で使用するローブのために作られたものなのだ。例外は年に一度、ホームのバザーでごくわずかな量が販売される時なのだが、当然その競争率の高さは驚異的なものになる。エーベル国内でさえ入手困難だと言われる所以だ。
そのレースをどういう伝手で取り寄せたのか。人々が驚くのも無理はなく、さらにその視線は労せずそれを手に入れることになったベンジャミンへと向かう。たとえ台無しにされたレースがどれほど高価なものだとしても、サビーヌ・ホームのレースを持ち出されてはこれ以上言えることは何もない。もし件のレースを入手できるのなら、百回だってジュースを零されてもいいと思う者がこの場には大勢いるのだ。
ぐっと言葉に詰まったベンジャミンだったが、黙っていては更に追い込まれると感じたのだろう。唇を歪めながら両手を広げた。
「これは驚いた! サビーヌ・ホームのレースだって? まさか偽物ではないだろうな」
アレクシスは黙ってそれを聞いていたが、周囲を取り囲む客はしんと静まることで不同意を示す。何せ
「だ、だってそうだろう。サビーヌ・ホームはレースを入手する目的での寄付を受け取らないことで有名だ。そんな修道院からどうやってレースを取り寄せられるというんだ」
焦るベンジャミンをしばらくじっと眺めていたアレクシスは軽く肩を竦めた。
「それは初代ジョナサンの功績が大きいな。サビーヌ・ホームはモンテクロースの教義を信仰しているから、ルフトグランデへの助勢を頼んだ時からずっと、ハリントンはサビーヌ・ホームへの寄付を欠かしたことはない」
その場にいた全員があっと驚いた。ルフトグランデを救うきっかけとなった宗教国家への恩返しを、ハリントン男爵家は今もずっと続けていたのか。
おそらく、モンテクロース国外に複数ある宗教施設全てへ寄付を行っているのだろう。国家の恩人である初代ジョナサン・ハーヴェイの代から秘かに続けてきたことを、今初めてアレクシスが明らかにしたのである。
ただでさえアレクシス寄りだった空気が、一気にハリントン男爵家側に回った。それは普段彼のことを成り上がり者だと嘲る保守派の貴族でさえ同じだ。一方のベンジャミンは、誰の目にも恩知らずで無礼な男に映った。
「そんなに貴重なものをわざわざ取り寄せたというのに、俺に渡してしまって構わないのか。見たところお前の格好は流行を無視したものだが、ようやく人並みに着飾るつもりになったんだろう。……そういえばハリントンの初代もモンテクロースの女王を身体で篭絡したという噂だったな。だが、いつまで経っても貴族らしくない、そんな質素な衣装しか身に着けられないのはやはり血筋のせいかもしれないな。何なら俺が、貴族らしい服装とはどんなものかをお前に教えてやろうか」
言えば言うほど自分の価値を落としていることにも気づかない、哀れな男だ。アレクシスは冷笑を浮かべて学友を見下した。
いつからこいつはこれほど愚かになったのだろう。哀れみの感情が浮かんだが、もちろんクラリスに対する仕打ちを忘れてはいない。アレクシスはふうと気だるげに息を吐き、見ている者の背筋が冷えるほど美しい顔で微笑みながら応えた。
「レースのことなら気にするな。たっぷりニダースはあるし、使うのは妹しかいないから余るほどだ。ああそう、それから私の衣装についてのありがたい申し出を断る無礼を許してくれ。これでも自分の選んだ服装に十分満足していてね。下賤な血筋のせいか、私は男としての動物的な本能が強いようなんだ。本気になった相手は自分から追いかけて手に入れなければ気が済まない。雄の孔雀のように自分を飾り立て、女性から選ばれるのをじっと待つなんて真っ平御免だ」
それを聞いていた令嬢――セリーナ・ノークスだった――がくすりと笑い、ベンジャミンは頬をカッと紅潮させた。公爵家とはいえ二男にすぎないベンジャミンは、このままでは
「君もお父上の体調がいいうちに、自活の術を身に着けておくといい。何でもウィンシャム公は物忘れが激しくなり、あろうことか邸内で迷うことまであるらしいじゃないか。ああ、そうか! お父上を安心させるため、一日でも早く結婚しようとしているんだな? だが、何事も焦るとろくなことにはならないぞ。伴侶選びはくれぐれも慎重にしたまえ。身持ちの堅さに疑いのある、底意地の悪い女に引っ掛からないよう、お互いに注意しようじゃないか。……かつての
「何だと!?」
きゃあ、と小さな悲鳴が聞こえた。ベンジャミンがアレクシスに掴みかかったからだ。
「貴様! ソフィアを侮辱すれば許さないぞ!!」
「目を覚ませ、グリーンハウ=スミス。ソフィア・パラコートに君が心を砕く価値などない」
「まだ言うのか! ソフィアはお前のせいであんな遠い国に嫁がされることになったんだぞ! 良心があるなら申し訳ないと思って当然だろう!」
「面白そうな話をしているね。僕も加わっていいかい?」
二人はパッと振り返った。そこにはにこやかに笑う金髪の若い男性と、メルボーン侯爵。そしてあきれ顔で夫に腕を預ける侯爵夫人がいた。
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