侯爵家の舞踏会④

「ついさっきまでその辺りにいたんだがな……ベンジャミンもお前のことを探していたぞ」

「そうか。……ローバーズ・ジムにはまだ通っているのか? よかったら今度一緒に行こう」

「いいな! 是非誘ってくれ。お前に叩きのめされないよう鍛えておくよ」


 共通の趣味であるボクシングについて約束したアレクシスは、軽く手を上げて友人に別れを告げた。

 シガールームからビリヤードルーム、ロング・キャラリーを通ってまた大広間に戻ってきたところだ。行く先々で知人からベンジャミンを見かけたと言われたが、本人だけがどこにもいない。そして口々に彼もアレクシスを探していると聞かされた。


 まるで鬼ごっこだな。嫌いあう相手との無邪気な遊びを想像しながら、アレクシスは颯爽と歩いていく。考えるのはこの舞踏会に出席した目的である、ベンジャミン・グリーンハウ=スミスへの対処についてだった。


 ベンジャミンにどうやって釘をさすか。相手は仮にも公爵家の子息だ。面子を立ててやりながら、これ以上の嫌がらせを断念するよう優雅に仕向けるのが理想だ。本音を言えば少しくらい痛い目をみせてやりたいが、男爵家としてお灸を据えた過去がある。ここで再び深追いしては却って面倒なことになるだろう。何事も引き際が肝心だ。

 

 一歩進むごとにあちこちから視線を感じるが、涼しい顔ですべてをやり過ごした。その視線は成り上がり者のハリントン男爵家を蔑むものや莫大な富を羨むもの、また女性たちからの熱っぽいものなど様々だ。こうやってじろじろと見られることもハリントン男爵家当主の役目だと割り切るアレクシスにとって、もはやこれは日常である。いちいち取り合ってはいられない。

 もちろん純粋に事業提携を望む者もいるだろうが、働くことを卑しいと考える貴族はまだ多い。アレクシスはこの夜会で人脈を作るつもりはなかった。


 大広間の中ほどで、アレクシスは目を眇めながら辺りを見回した。随分客が増えてきた。ベンジャミンは気になるが、そろそろクラリスの元へ戻らなければ。きっと心細い思いをしているだろう。


 クラリスを連れたまま目当ての人物を探すつもりのない彼は、次善の策として別の機会にベンジャミンと接触する方法を考えていた。

 もし今日会えたらそれでよし。会えない場合でも彼の行動履歴を調べさせ、偶然を装い顔を合わせることにしよう。確かあいつは競馬が好きだったから、競馬場に行ってもいい。折しも来月には王室主催のレースが開催される。ひと月待つことだけがデメリットだな。アレクシスはベンジャミンに会う効果的な時と場所を、目まぐるしいほどのスピードで計算し始めた。


 いつどこで会うにせよ、二人の対面は衆人環視の中で行われ、アレクシスが望むよりもずっと穏当なものに終わるだろう。それはそれで仕方のないことだ。アレクシスは冷静だった。


 軽食というには豪華な食べ物がワゴンに乗せられ、次々に補充されていく。クラリスのことだ、まだ何も食べていないだろうから、とりあえず彼女の好物でも食べさせようか。

 レバーのパテは好きそうだったな。シエルハーンには海がないから、魚料理も喜んでいた。ワゴンにはどちらもたっぷり乗せられているから、食いそびれることはないだろう。


 アレクシスは知らず唇を緩め、優雅さを失わない程度に足を速めた。せっかくの外出を楽しいものにしてやらなければ。そう考えていた時、きらびやかな舞踏会にそぐわない怒声が聞こえてきた。

 

 給仕が何かヘマでもしたのだろうか。だが客たちが声をひそめて囁き合う姿と、どこか気の毒そうに視線を交わす姿に胸騒ぎがする。それを決定づけたのは、床を滑るようにして飛ばされてきた小さな手帳だ。


 黙ったまま人込みをかき分けた先には、頭上に掲げられたグラスから今にもワインをかけられそうになっているクラリスの姿があった。しかも、かけようとしているのはベンジャミン・グリーンハウ=スミスではないか。


 アレクシスの頭にカッと血が上った。

 自分でも驚くほどの速さで二人の間に割って入る。勢いでこぼれたワインが肩にかかったが、一瞬の躊躇いもなくベンジャミンの胸に手をついて身体を押しのけた。


「……久しぶりだな、ベンジャミン・グリーンハウ=スミス」


 腹の底からこみ上げる激しい怒りが胸元を突き破りそうだ。ちらりと見たクラリスの青ざめた顔が怒りに拍車をかける。アレクシスは目の前の男を殴りつけたくてたまらず、意志の力を総動員してそれを堪えた。


 怪我をさせられた訳でなし、ただワインに濡れるだけのことだ。多少髪粉は流れるだろうが、何ならアレクシスの上着で彼女を覆い隠してさっさとこの場を後にすることもできた。そのうえで紳士にあるまじきベンジャミンの行いを糾弾し、メルボーン侯爵邸の舞踏会を騒がせた不作法さをちらつかせながら交渉に及ぶのが、本来アレクシスが――ハリントン男爵家当主の取るべき方法だったはずだ。

 

 それでもアレクシスは後悔するどころか、人前で口にすべきではない言葉をどうにか呑み込んでいるような有様だ。怒りが収まる気配もない。クラリスを傷つけ、侮辱したベンジャミンを許すつもりはなかった。


 ――二度とこんな真似ができないようにしてやる。


 それはアレクシスがおそらく初めて取った、理性よりも感情に任せた行動だった。凍るような目でウィンシャム公爵家の息子を見下ろし、低く、そしてゆっくりとした口調で語りかけた。


「元気だったか、ベンジー? ……失礼、グリーンハウ=スミス。つい昔のように気安く呼んでしまったよ。同窓のよしみで大目に見てくれないか。そういえば先日、ウィンシャム公をお見かけしたが、少しお痩せになったようだな。あまり体調がよくないと耳にしたが、それは本当なのか? いい医者を知っているから、もし必要ならいつでも連絡をくれたまえ」


 ベンジャミンはサッと顔を強張らせ、周囲の人々はザワザワと騒めいた。

「ベンジー」というあだ名は彼が最も嫌う呼び名だ。そもそも同窓とはいえ親しくもなかった二人はあだ名で呼びあう仲ですらない。

 そして名誉職に近いとはいえ、ウィンシャム公爵は貴族院議長という職に就いている。それに加えて公爵位もまだ長男に譲っていない。その公爵が体調不良だという噂が流れれば、多方面に影響がでるのは明らかだった。

 とりわけ長男に領地運営の実績がないのは痛い。ウィンシャム公は全てを自分が把握しなければ気が済まない性格で、後嗣に対してもなかなか仕事を引き継げなかったようだ。当主が健康なうちはそれでもいいのだが、病気となれば話は別だ。たちまち後嗣の能力への不安につながり、銀行の取り引きや融資の条件が変わってしまうだろう。

 

 だから貴族の――それも高位貴族の――代替わりというのは慎重のうえにも慎重を期して行われる。ほとんどの当主が健康なうちに後継者へ経験を積ませ、人脈とともに代を譲るのが慣例となっていた。例え当主が病に侵されていてもそれを隠して引継ぎを優先するのが普通なのだ。例外は事故や病で当主が急死するか、もしくは。


 ――敵にそれを暴かれ、陥れられるかだ。


 アレクシスは青い瞳をちかりと光らせた。



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