侯爵邸の舞踏会③

 シガールームへ向かう広い背中が見えなくなるのを、クラリスは心細く見守った。

 煙草が紳士の嗜みとなって久しいが、どちらかというと社交場としての意味合いが強い。アレクシスとしては、男しかいない場所に彼女のような見た目の従者を連れていけば目立って仕方ないと考えてのことだったが、クラリスは自分が役立たずの烙印を押されたようでしょんぼりしていた。


 徐々に客が増え、椅子も埋まってくる。それなのにクラリスの周囲には誰も腰掛ける者はおらず、快適さよりもそわそわとした落ち着かなさを味わった。


 実際は、ハリントン男爵家に出入りする一流テイラーの手による礼服――アレクシスに倣いごくシンプルなもの――に身を包んだ彼女のことを、どこの貴公子だろうかと遠巻きにしていただけなのだが、もちろんクラリスは気づいていない。早くアレクシスが戻らないかときょろきょろしていたクラリスは、ある女性に視線をとめた。


 二十代前半と思しき美しい女性だ。高く結った髪に薔薇色のドレス。耳には重たげなダイヤモンドのイヤリングがついている。

 豪華に装っているが、それは会場にいる他の女性たちと同じだ。それなのに気になったのは、彼女の顔色が青く足元もふらついていたからだった。


 間の悪いことに、給仕たちは増えた客に飲み物を配りにいってしまっている。さらにクラリスの斜め横に立つ騎士からは、女性の後ろに立つ男性が死角になっているらしく、誰も彼女の顔色の悪さに気づいていないようだ。


 ――あっ、あぶない!


 ぐら、と女性が大きく姿勢を崩したとき、クラリスは椅子から飛び降りて女性に駆け寄った。きゃ……と小さな悲鳴が上がる。頽れた女性をクラリスが辛うじて抱きとめたことと、手に持っていたグラスが床に落ちて割れたことが原因だった。


 ――……お、重い……っ。


 ドレスや宝石で着飾った女性の重量は予想以上だ。細い腕に力を込めて支えていると、ようやく気づいた騎士が慌てて近寄り一緒に支えてくれた。

 幸いなことに、女性はすぐに意識を取り戻したようだ。クラリスはさっきまで自分が座っていた椅子に腰掛けさせると、ハンカチで顔を煽いで風を送った。


「……もう、大丈夫ですわ。ご迷惑をおかけしました。私、セリーナ・ノークスと申します」


 ようやく彼女がそう言ったのは、しばらく経ってからだった。顔色はまだ青いが目の焦点は合っている。クラリスは重たげなイヤリングと結い上げた髪、コルセットで締め上げられた細い腰を眺めた。夜会に出席する女性の大変さは身をもって知っている。

 クラリスはポケットの中から手帳と鉛筆を取り出して「私はフレディと申します」と書き、それを女性に向けた。


「あなた、口が……?」


 驚いた顔の女性に頷いてみせ、もう一度手帳に鉛筆を走らせる。それを覗き込んでいたセリーナは、また大きく目を見開いた。


「まあ……! ハリントン男爵様に仕えていらっしゃるの?」


 頷いたクラリスの全身をまじまじと見る。不快に思わないのは、セリーナの視線に悪意がないからだろう。納得した様子のセリーナは、クラリスを見つめながら声に賛嘆の響きを込めた。


「そう。ではハリントン男爵様は本当に今日の舞踏会へいらっしゃっているのね。しかも、こんなに素敵な従者を連れて。やっぱり無理してでも参加してよかったわ。滅多に姿を現さない男爵様が来られるとあって、招待状は争奪戦だったのですって。私はちょっと、特別な方法でそれを手に入れたのだけれど。何人もの友人から譲ってくれと頼まれて、本当に困ってしまったのよ」


 セリーナは楽しそうに説明した。話しているうちに、少しだが頬に血色が戻ってきたようだ。クラリスはホッとして、手帳に「飲み物はいかがですか」と書いた。


「いただこうかしら。あ、でも自分で……」


 立ち上がろうとするのを手で制し、クラリスは軽食と飲み物が並ぶテーブルに向かう。先ほど壊してしまったグラスは跡形もない。申し訳なく思っていると、経緯を見ていたのか側にいた給仕が「こちらはオレンジを絞ったジュースです」と勧めてくれる。

 まだアルコールが入っていないもののほうがいいだろう。クラリスは笑顔を浮かべてそれを受け取り、急いでセリーナに渡そうと振り返ったのだが――。


「……!」

「おいっ、何をするんだ!!」


 真後ろに近づいていた男性に気づかず、クラリスは顔面からその男にぶつかった。しかも、手に持っていたグラスからジュースが零れ、相手の袖口を濡らしてしまう。 


 ――しまった!


 サッと顔を上げ、男の顔を見た。

 まだ若い男だ。黒に近い茶の髪に、紫の縞のベスト。上着は鮮やかな紺色の非常に上質なものだ。泡立つように白く見事なレースが袖口から覗いている。クラヴァットピンの意匠は金色の鳥で、ひと目で金をかけていることが分かる出で立ちだ。クラリスにかけられたジュースのオレンジ色だけが、酷く異質なものに見えた。


 青くなったクラリスは慌てて頭を下げたが、相手の男は気が済まないようだ。額に青筋を立てながら大声で怒鳴った。


「どうしてくれる! レースが台無しじゃないか!」


 何度も頭を下げるクラリスに男が詰め寄ってくる。何事かと遠巻きにしながらも集まりつつある客の視線が痛い。

 騒ぎを聞きつけた従僕が宥めようと近づくが、男は片手を上げてそれを遮った。


「何とか言ったらどうだ! 名を名乗れ!」


 クラリスはポケットから手帳を取り出したが、何もかも気に喰わないらしい男はクラリスの手ごとひっぱたいてそれを弾き飛ばす。小さな手帳は床を滑り、すぐに見えなくなった。


 ――あっ!


「何をもたもたしているんだ! さっさと名前を言え!」


 口の利けないクラリスにとって、手帳は唯一といっていい意思表示の方法だ。これがなければ謝罪もままならない。咄嗟に声を出そうとしたクラリスだが、当然のごとく漏れるのは空気の音だけだ。クラリスは唇を噛んだ。

 激高した男を前になす術もないクラリスが、それでも必死に口を動かしていた時、凛とした声が二人の間に割って入った。


「そのお方はフレディ様と仰います。ハリントン男爵様にお仕えしている方ですわ」


 セリーナだった。ややふらつきながら立ち上がった彼女は貴族令嬢の気品に溢れており、その声は興奮に支配されかけていた空気を鎮める効果があった。


「ハリントン男爵だと……? では、このはアレクシス・ハーヴェイの使用人なのか」


 やや鼻白んだ様子だった男が、じろじろとクラリスを眺める。やがて何か思いついたような顔でにやりと笑った。


「――そうか。ではフレディ。本来、使用人の不始末は主の責だが、私は寛大な男だ。お前自身に責任を取らせてやろう」


 そう言って、自分が手にしていたワイングラスを高く掲げた。


「これをお前にかけて、それで終いにしてやる。私のレースとは到底引き合わないが、これでだ」


 見上げたクラリスの視線の先で、濃い赤紫の液体が揺れていた。

 あれをかけられたら、せっかく用意してくれた衣装が汚れてしまう。男爵家の皆がどんなにがっかりするだろう。考えただけで悲しくて情けなくて涙が出そうだ。従者の役を果たせないどころか、ハリントン男爵の名に傷をつけてしまった。

 それだけではない。もしワインを頭からかけられてしまえば………。


 ――きっとセリーナ様たちから布で頭や顔を拭かれるわ。そうしたら髪粉が落ちて、本当の色がばれてしまう。どうしよう、どうしたらいいの……!


 グラスは無常にも傾いていき、最初の一滴がグラスの縁から零れ落ちるのが見えた。


 ――ああ!


 ギュッと目を瞑ったクラリスだったが、いつまで待っても液体がかかる様子がない。恐る恐る目を開けると、そこには見慣れた大きな背中があった。


「……久しぶりだな、グリーンハウ=スミス」


 アレクシス愛用の香水がふわりと香る。クラリスはその背にしがみつくのを懸命に堪えた。


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