クラリスの決意と幼い弟


「お休みのところ大変恐縮です」

「お前がわざわざ足を運ぶほどの問題があったのか。のことなら煮るなり焼くなり好きにしていいと伝えたはずだが」

「バークリー公爵家のご嫡男なら、事情聴取を済ませて先ほど公爵邸へお送りいたしました。本日中にあなたへ礼を言いに来られるそうです」


 アレクシスは今度こそはっきりと眉間に皺を寄せた。せっかくの休日だというのに、面倒ごとしか起こさない従弟、バークリー公爵家の一人息子であるドミニク・ジョナサン・マクスウェルの相手までしなければならないとは、今日は一体どんな厄日なんだ。


「で? ドミニクの件でなければ何の用だ」


 ますます不機嫌になるアレクシスだが、ロナルドは警察の前身である警邏隊で鳴らしただけあり、威圧を恐れるでもなくただ純粋に休日を邪魔してしまった申し訳なさで頭を下げた。


「はい。少々込み入った事情がありまして」

「可能な限り簡潔に話してくれ」

「お話するよりも、ご覧になっていただいたほうが早いかと」


 ロナルドは扉を開け、外で待っていた二人を押し出すようにしてエントランス・ホールへ招き入れた。


「この二人のことを、ハリントン卿はもちろんご存じでしょう」


 それは昨夜、クーパー商会でアレクシスが二千ゴールドで買った兄弟だった。

 ロナルドが美麗な邸に足を踏み入れるのを躊躇い、男爵家を取り仕切る家令が主をエントランスまで足を運ばせた理由がこれだ。二人は昨日と同じくうす汚れたままで、同じように兄が弟を庇うように抱きしめている。

 二人を見たアレクシスはピクリと眉を動かしたが、ロナルドはそれに気づかなかった。


「まさか、お前の用件というのは」

「はい。あなたに買われたと彼らが主張するもので」


 アレクシスは苛立ちを隠そうともせずに顎を上げた。


「ロナルド・ストロング警視監。お前は正気なのか? 人身売買を取り締まる立場にありながら、金で買った相手の家に子供を連れてくるなど職務怠慢もいいところだ。この二人を連れていくに相応しい場所なら他にいくらでもあるだろう」

「ええ。本来なら親元へ戻すのが正当な手順です。しかし彼らに親はいないと言う。孤児なら施設に入れることになりますが、兄のほうは入所が許される年齢を超えている。弟だけなら孤児院に入れることもできるのですが」


 ストロングの言葉を聞いて、兄のほうが顔を上げてふるふると首を横に振った。よく見れば服も体も汚れたままだが、顔だけは簡単に拭ったらしく顔色が幾分か見えている。汚れと混じりほとんど灰色の肌が今は青ざめ、美しい菫色の瞳が訴えかけるように潤んでいた。


「終始この調子で、しかも兄のほうはどうやら喋れないようなのです」

「なに? それは確かなのか」

「はい、保護してから一度も口をきいておりません。ただ読み書きはできるようで、本人の意志は確認しております。使用人としてこちらで働かせてほしいと」

「使用人だと?」

「はい。給金は要らない、ただ弟と二人納屋の隅にでも住まわせてもらえればそれだけでいいと主張しております」


 ロナルドは取り出したメモを差し出した。黙ってそれに目を通すアレクシスを、クラリスは息を詰めて見守った。


「……これは、本当にその子供が?」


 ちら、と目線で指され、クラリスの心臓が飛び出そうになる。ロナルドは頷いた。


「ええ。……いかがでしょうか、ハリントン卿。人攫いから子供を買ったということではなく、身寄りのない哀れな兄弟へ慈悲を施すとお考えいただく訳にはいきませんか」


 必死な様相の二人をじっと眺めてから、アレクシスはロナルドへ視線を移した。似たような孤児を何人も見てきたはずの彼が、この兄弟には妙に肩入れしているようだ。確かに気持ちは理解できた。世界から見捨てられたような寄る辺なさを感じさせる二人だ。実際にアレクシスも庇護欲を搔き立てられ、思わず心を動かされている。しかし。 


「慈善として、どこの誰かも知れない者を邸に入れろと言うのか。?」


 アレクシスから強い口調で指摘され、ロナルドは押し黙った。

 富豪であればあるほど、身元の不確かな者をおいそれと受け入れる訳にはいかないのだ。それは金を出して施しを行うのとは全く次元の違う話で、妹を護る責任があるアレクシスからすれば当然の反応ではあった。


 鋭い青い瞳でロナルドを睨んでいるアレクシスを見て、クラリスは絶望で膝から力が抜けそうになった。

 護衛騎士たちとはぐれてから半月、どうにかたどり着いた王都レスターの裏通りで二人は生活していた。余りにも頼りなさそうだったからか、偶然出会った浮浪児のリーダーから気に入られ、食べ物を分けてもらった。そうやって知った、比較的安全だという橋の下の寝床で浅い眠りについた日々。

 心から安心できることは一瞬たりともなかった。何より辛かったのは、末っ子で甘えん坊の弟が一度も泣き言を言わなかったことだ。

 クラリスはごく些細なつながりしかない人に縋る厚かましさを、今更恥じてなどいられなかった。

 弟と二人で安全に暮らせる場所がどこにあるのだろうか。

 叔父の手の者ですら手出しできないほど警備が厳しく、身元を明かさずとも働かせてもらえる場所。紹介状も保証人もない自分が安全に弟を護って暮らせる場所など、ここ以外考えられなかった。


 希望が潰える絶望に目の前が真っ暗になり、目眩を覚えたクラリスは僅かによろめいた。せめて口がきけたなら自分自身の言葉で懇願することもできただろうに、それすら叶わない自分の無力さが情けない。


 だがそれでも、クラリスは両の拳を握りしめ顔を上げた。

 自分を哀れんでいても何も始まらない。話せないなら書けばいい。迷惑がられたとて構うものか。

 諾と言われるまで頼み込もうとクラリスが心に決めたその時、思いがけない人物が口を開いた。

 

「お願いします!」


 声を上げたのはクラリスに抱きしめられていた弟だった。驚くクラリスを余所に、彼はもがくようにして自分を抱く腕を押しのけると、真っすぐにアレクシスを見上げた。


「ぼくたちをここに、置いてください! 何でもやります。そうじでも皿洗いでも、馬の世話でも。もし何かを盗んだり、悪いことをした時にはすぐに追いだしてもらってかまいません!」


 ダンカンがほう、と片眉を持ち上げた。大人に取り囲まれて臆することなくはっきりとものを言う度胸と、育ちのよさが分かる上品な言葉のアクセントに感心したのだ。

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