妹の悪癖


 彼らを取り囲む大人のうち、ひとりは荒事も辞さない警察官で、もうひとりは高慢な物言いの大富豪である。特にアレクシスは非の打ち所のない容姿だが、態度は傲岸不遜で口調も強い。普通の子どもなら怯えてもおかしくはないだろう。


 弟は、兄とよく似た菫色の瞳で大人たちを見上げた。

 こんなに汚れ切った姿でさえ立ち姿にどこか品がある。ダンカンはそう認め、片眼鏡を外すと潤む目元をハンカチで丁寧に拭いた。


「ええ、いいでしょう。使用人としてあなたたちを雇います」

「バリー!」


 あっさりと雇用を宣言した家令に、ぎょっとしたアレクシスは声を上げた。

 

「なぜ勝手に許可を出すんだ」

「おや。邸の使用人に関する権限を私にお与えになったのは若ではありませんか」


 平然と答えるダンカンに舌打ちをする。確かに使用人の雇用に関する権限を与えてはいるが、当主の意向を無視していいはずはない。しかし、二代に亘り当主に仕える家令はため息をつきながら再び目を拭い、ついでに音を立てて鼻をかんでから抗議した。


「若は健気なこの兄弟を見捨てろと、そう仰るのですか」


 主と家令の間に流れる不穏な空気に、元凶を持ち込んだ警視監は俄かに焦り始める。


「ミスター・ダンカン。お口添えいただけるのは有難いのですが、どうか穏便に」

「これが穏やかに話せる内容だとでもお思いですか。余りにも酷い。自分の仕える主がこれほど冷酷なお方だと知った以上、わたくしは職を辞するつもりです」

「ミスター・ダンカン! ハリントン卿、黙っていないで何とか仰ってください!」


 切れ者で知られるハリントン男爵家の家令が辞職するとなれば大ごとだ。ロナルドが主従の諍いを鎮めようと慌てる隣で、アレクシスはフンと鼻を鳴らした。


「こいつの言うことを真に受けるな。先日見た舞台の登場人物を気取っているだけだ」

「舞台?」

「ああ。『家令スチュワードルーニーと小公子の事件簿』という舞台を見たことがあるか」

「……大変な人気で、チケットの入手が難しいという話なら耳にしました。ルーニー役の役者がちょっとくたびれた壮年男性で、若い俳優でなければ集客できないという定説を覆したと」

「主人公ルーニーに、みすぼらしい少年が下働きとして働かせてくれと頼み、主に逆らって少年を雇ったルーニーと、実は名のある貴族の嫡子だった少年が協力して次々と事件を解決していくという物語だ」

「まさか、ミスター・ダンカンは――」

「ルーニーになったつもりで受け答えしていただけだろう」


 どんな荒くれ者を前にしても動揺したことのない警視監が口をあんぐりと開けた。


「し、しかし、あのように涙を」

「あれは季節性のものだ。この時期になると鼻水が出て目が痒くなるらしい」

「はい。この体質だけはいけませんね。この程度で済んでいるのも、若がいいお医者様をつけてくださったおかげでございます。ありがたいことで」


 唖然とするストロングを横目に澄ました顔で片眼鏡をクイと持ち上げたダンカンは、もう一度鼻をかんでからハンカチをポケットにしまう。


「冗談はさておき、庇護を求めてやってきた子どもを追い返すような真似はせずともよろしいかと存じますが」


 口の達者な家令に顔をしかめながら、アレクシスはクーパー商会で初めて会った時と同じように兄弟の前に片膝をついて顔を近づけた。

 印象的な青い瞳で見据えられ、兄弟は同時にこくりと唾を飲む。


「名前と年を」

「ヴィク、六歳です」

「兄のほうは」

「フレディ、十……ろく、さいです」


 口ごもるヴィクを見て、アレクシスはスッと目を眇めた。


「ほう……。六歳に、十六歳か」


 沈黙の中でじっと見つめられ、ヴィクはもじもじしながら目を逸らした。しばらくその様子を見ていたアレクシスは、やがて噛んで含めるように言う。


「ではヴィク。あんな処で出会ったのも何かの縁だ。金が必要なら用意してやろう。落ち着くまでは俺が所有するアパルトマンに住めばいい。使用人もつけてやるし、いつまでと期限を気にすることなく――」


 ハッ、と息を飲んだのは兄のフレディだった。口をはくはくと動かしながら何度も何度もかぶりを振る。そして後ろから弟を強く抱きしめ、堪えようもなく潤む瞳からほろりと一つぶ涙を流した。透明な水滴に洗われ、汚れた頬に白い筋ができる。

 アレクシスは言葉を失った。

 みすぼらしい孤児が泣いただけだ。それなのにその場にいる全員が、とんでもない非道を行ったような罪悪感に苛まれた。


「……若。あなたさまがこれ程冷たいお方だとは、私は今の今まで存じ上げませんでした」


 じとり、と片眼鏡越しにダンカンがアレクシスを睨んだ。そのうえいつも礼儀正しいロナルドまでが、富豪の男爵家当主に非難の目を向ける。


「ハリントン卿。私も多くの犯罪者を見てきましたが、この二人が悪事を企むとは到底思えません。身元を保証する者が必要だと仰るなら、私がその役を引き受けましょう。どうか彼らの希望を叶えてやってくださいませんか」

「素敵!」


 男たちは一斉に振り返った。そこには目をハートにし、両手を胸元で握り合わせたジュリアナが立っていた。


「レディ・ジュリアナ。朝早くから申し訳ありません」


 ロナルドはサッと姿勢を正すと、男爵家の女主人に一礼した。彼はジュリアナの熱烈なアタックをかわし続けている。三十二歳と二十歳という年の差以上にハリントンの名は重く、現実的に交際を考えられる状況にないようだ。


「ごきげんよう、ロナルド様。制服姿がとってもお似合いですわ。それに惚れ惚れするような仰りよう。さすがは市民を護る警察の鏡でいらっしゃる。何て素敵なんでしょう」

「はしたないぞ、ジュリアナ。部屋で待つように言っただろう」


 アレクシスは眉間を指先で揉みながら窘めた。この口うるさい妹の存在をすっかり失念していた。おまけに妹は昔から捨て猫や捨て犬を見れば必ず拾う悪癖がある。余計な口出しをされる前に追い払わなければ。

 そんな兄の思惑を無視したジュリアナは、衣擦れの音をさせながら孤児の兄弟に近づいた。凝った花の刺繍が施された緑色のドレスが汚れるのを気にすることもなく兄弟の前にしゃがみ込む。


「この子たちは?」

「……昨夜の、闇取引の現場にいた子どもです」


 受け入れを拒む当主の前で詳細を語るのを憚り、実直な警視監は事実のみを述べた。ジュリアナは唇を少し尖らせながら、今度は目の前の子供に直接話しかける。


「ねえあなた、名前は?」

「ヴィクです。あの、ぼくたち……」

「どうしたの?」


 迷いは一瞬だった。ヴィクは両手を握り、意を決して切り出した。


「ぼくたちをここで、働かせてください!」


 ぱち、と瞬いたジュリアナは、苦虫をかみつぶしたような顔の兄と申し訳なさそうな警視監、そしていつもどおり澄ました家令を見渡して、最後に弟の後ろで涙を堪えようとするフレディに目を遣った。


「……いいわ。雇ってあげる」

「えっ」

「おい、ジュリアナ」

「お兄様は黙っていらして。ねえ、先にお風呂に入りましょうか。お腹もすいているわよね。バリー、お風呂と食事と、それから二人に合う洋服を準備してちょうだい。急いでね」

「はい、直ちに」

「あ、あの、ぼくは兄といっしょにいたいんです。でも、今フレディは口がきけなくて、それに……」


 本当にいいのだろうか。クラリスとヴィクターは心細さのあまり、縋るようにジュリアナを見つめた。

 泣くまいと懸命に自分を奮い立たせる四つの瞳を安心させるように、当主の妹であり、兄から本気で命じられても逆らうことのできる唯一の人物――前当主である父親のゲイリーは別だ、国内にいないのだから――はにっこりと笑った。


「安心して。あなたたち二人を引き離したりしないって、約束するわ」


 そして今更ながらに兄を振り返り、面白そうに目を輝かせた。


「ねえお兄様、構わないでしょう?」


 その場にいる全員の視線がアレクシスに集まる。

 形のよい眉を顰めたハリントン男爵家の当主は、やがて口角をグッと下げた。


「…………好きにするがいい」


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