無粋な訪問者

 そもそも妹のことは基本的に放任している。決して愚かではない妹がこうまで言うのだから、おそらくうまくやれるのだろうと思っていた。彼がこの件で妹へ命じたことはたったひとつ。相手の承諾は自分でもらうように、ただそれだけだ。

 まあたとえ結婚までこぎつけたとして、上手くいかず出戻ったら家業を手伝わせればいい。離婚に対する外聞だの体面だのを、アレクシスはまったく気にしていなかった。彼がその気になりさえすれば、指先一本どころか目線を動かすだけで簡単に雑音を封じることができるのだから。


 そんな風に考えていたアレクシスだが、今は本気でそれを後悔していた。

 手広く事業を展開するハリントン男爵家の当主となれば多忙を極めると思われがちだが、実際は殆どの業務を部下に任せている。彼らには大きな権限を与えており、よく不正などの緩みが起きないものだと周囲からは感心されていた。あれだけ金を持っていれば優秀な人間が揃うのも当然だと陰口を叩かれてもいるが、実際のところ代々ハリントンの嫡男に最も強く受け継がれているのは、商才ではなく人を見る目なのだ。


 それは天与の才と言えるほどのもので、いかに表面を取り繕ったとしても彼らの眼力の前に何の役にも立たず、また埋もれた人材を見つけるのも実に上手い。そうやって見出した者とは雇用主と使用人という立場ながら、人として対等に扱うので意欲は高まる。何しろハリントン男爵家の当主から認められるのだ。忠誠心を高め結果を出しさえすれば相応の処遇をするため、ますます人が集まる仕組みだ。

 しかもアレクシスはただ賢いだけの人間は決して重用しない。冴えた青い目で相手をじっと凝視し、彼にしか分からない何等かの基準に達した者のみ栄えある要職に就くことができる。また定期的な報告の場――部下たちは「王の審判」と呼んでいる――で電撃的な人事を行うこともよくあった。それがまた薄気味悪いほど悉く的を射ており、立場や富に慢心した者はあっという間に用無しの烙印を押されてしまう。機を見るに加え人間の心の内まで見透かすような能力まで備えているとあって、畏怖とないまぜになったアレクシスの求心力は高まるばかりだ。


 そうして負荷を上手く分散しているアレクシスではあるものの、優雅に遊んでいられる訳もない。予定の詰まった日々の中で取る貴重な休日を従弟の世話で半ば潰された挙句、ごくごく稀にしかない「友人と痛飲」した翌朝に妹の想い人のために叩き起こされるのだ。


 ――こんなことなら降るようにきていた縁談で、さっさとこの小うるさい妹を結婚させておくべきだった。


 ささやかな抵抗とばかりにうつ伏せになった兄の背を、ジュリアナはペチンと叩く。

 首から肩、そして背中にかけてしなやかな筋肉をまとう上半身は、寝室でのアレクシスの習慣どおり裸のままだ。冷え性のジュリアナには考えられないことだが、アレクシスは真冬でも下着だけでベッド入る。筋肉がついているせいで体温が高いのかしら。ジュリアナは呆れながら、起きる気配のない兄の背を見てため息をついた。

 シーツの表面を指先で掻いて起き上がるふりをしていたアレクシスは、じきに緩慢な動きをとめた。放置すればまた寝入ってしまうに違いない。ジュリアナは兄の肩をゆさゆさと揺さぶる。


「ねえ、早く起きて」

「……ぅ……ん」

「そんな哀れっぽい声を出したって駄目よ。ほら、早く!」


 ギュッと耳を引っ張れば、アレクシスは観念して頭を一振りすると、しぶしぶながら身体を起こした。


「あー……。誰から、先触れが来たって?」


 近頃流行りの拳闘にはまってから、アレクシスの身体はますます男らしく魅力的になった。

 身元を隠していてもこの容姿だけで女はいくらでも寄ってくる。十代の頃はそれなりに遊んでいたようだが、少なくとも父の後を継いでから、兄の周囲に女の気配を感じたことはない。忙しいからというよりは、家督を継いでからあからさまに仕掛けられる色仕掛けにうんざりしたからだろう。

 気だるげに髪をかき上げる腕と、つられて浮き彫りになる割れた腹の筋肉。それに寝起きの掠れ声が色気に拍車をかけている。もしこの場に生殖可能年齢の女性がいればたちまち陥落するのだろうが、もちろん妹に効果はない。ジュリアナは隙あらば横になろうとする兄を見張りながら答えた。


「だからロナルド様よ。昨日のことを聞かれたらちゃんと答えられるように、しっかりと目を覚ましておいて」

「……あいつも元気だな。捕り物の翌日は忙しいだろうに、なんの用件なんだ」

「さあ、詳しくは知らないわ。どちらにしてもすぐに分かるんですもの、ぐずぐずしていないで早く支度して!」


 駄目押しにもう一度背を叩かれ、アレクシスはまた低く呻いた。



  ◆



「若。ストロング警視監がお見えでございます」


 家令の言葉を聞いても、アレクシスは新聞を動かすことすらしなかった。

 凍るような冷水を浴びてようやく目を覚ましたアレクシスは、インクが指につかないよう念入りにアイロンをかけられた新聞と、とびきり濃く淹れたコーヒーの力を借りていつもの鋭敏さを取り戻しつつある。

 家令にとっての「お館様」は、あくまでも先代の父であってアレクシスではない。未だひよっこ扱いの呼び名に納得はいかないが、父を超えなければ「若」呼ばわりをやめるつもりはなさそうだった。


「通してくれ」

「それが、エントランスでいいと仰るのです」


 ガサ、と新聞を避けて顔を出したアレクシスは、秀麗な眉を軽く顰めた。


「俺にエントランスまで出迎えろと、そう言っているのか」


 声に不満の響きが混じる。明け方まで飲んだ酒の影響は綺麗に消し去ったものの、休日の、しかも寝入りばなに叩き起こされればさすがに上機嫌とはいかない。

 その主に向かい、先代国王からスカウトされたこともあるほど優秀な家令バリー・ダンカンは片眼鏡をきらりと光らせ、アレクシスが物心つく頃から変わらない目尻の皺を深くしながら、右腕を腹部に当て上体を折った。


「はい。畏れながらご足労いただけましたらと」

「それはストロングのげんか」

「私の考えも同じでございます」


 主の鋭い目で見られて猶、ダンカンは慌てる様子もない。アレクシスはそわそわと落ち着かない様子の妹を横目でじろりと眺めてから、二日酔いを悟らせない身ごなしで立ち上がった。


「いいだろう。ジュリアナ、お前はここで待っていろ」

「まあ、どうして?」

「お前が来ると話が長くなるからだ。俺が用件を済ませた後に、好きなだけストロングへ付きまとうがいい」

「ロナルド様は用件が済めばすぐお仕事に戻られると分かっているじゃない。お兄様はたったひとりの妹に、どうしてそんなに意地悪になれるの?」


 ジュリアナは魔法のような手つきで素早くハンカチを取り出して、しくしくと泣き始めた。

 ハリントンの血筋では男子にのみ美しい容姿が受け継がれると揶揄されることがあるように、美男で知られるアレクシスに比べ、ジュリアナの顔は至って平凡だ。

 決して醜くはないし、よく言えば化粧映えのする顔なのだが、今はごく薄く白粉をはたいただけのほぼ素顔に近い状態だ。それは休日の早朝だからという理由などではなく、ジュリアナが恋してやまないロナルドが厚化粧を好まないからだった。


「泣き真似をしても無駄だ。バリー、さっさと片付けるぞ」

「かしこまりました」


 歩き始めた主を先廻りしたバリー・ダンカンは、兄の後ろ姿に向かって盛大にしかめっ面をしているジュリアナを視界の隅に認めながら扉を閉める。

 広い廊下のあちこちに使用人が忙しく歩き回っているが、皆大股で歩くアレクシスの邪魔にならないようさりげなく避けて頭を下げている。それに一瞥すら与えないのは当主だけではなく、側に仕える家令も同じだった。

 しかし、実のところダンカンは使用人たちの働きぶりを注意深く観察していたし、新参のメイドが若き当主の姿にポーッとなって見惚れているのもちゃんと把握していた。

 ダンカンは頬を染めたメイドの名前を心のメモに記し、配置替えをするか暇を出すかについて検討することに決めた。その間も彼はきっちりと上げた白髪を乱すことなく皺深い目元を柔和に細め、僅かに微笑んでいるような感じのよい風貌を崩さない。カミソリと異名をとる家令のおかげで、ハリントン男爵家当主アレクシスの日常は平穏を保っていた。


「ハリントン卿」


 豪奢な、そして品のあるエントランス・ホールに訪問者は立っていた。

 微妙に不機嫌そうな富豪の当主を前に、数刻前に顔を合わせたばかりのロナルドは申し訳なさそうに目礼した。



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