白金の糸と紫の蝶

 それから先の記憶はおぼろげだ。弟のヴィクターと合流したクラリスは着の身着のままで、三人の護衛騎士と一緒に城を出て国境へ向かった。行く当てなどない。それでもシエルハーンにいる限り命を狙われてしまうのだがら選択肢などなかった。

 峠を越える前にたった一度だけ、振り返ることを自分に許した。遠くに見えた城のあちこちから狼煙のように煙が上がり、火をつけられたのだとぼんやり思った。まるで悪い夢の中にいるようだった。


 ぎゅ、と手を握られ、ハッとして弟を見下ろした。目に涙をためて城を見ているヴィクターは何も尋ねなかった。兄妹弟の中で一番賢いヴィクターのことだ、色々と察しているに違いないのに何も言わないのは、姉を困らせないようにという思いからだろう。


 まだたった八歳にしかならない弟の気持ちを考えると胸が締め付けられるようだ。気休めでもいい、何か希望になるようなことを言ってやりたくて口を開き、その時初めて自分が声を出せなくなっていることに気づいたのだった。



 聴取室の扉が音もなく開き、背の高い男が入ってきた。口髭のある、威厳のある男。クーパー商会で会った警官の中でも地位の高い男だ。


「さて」


 彼はそう口火を切り、クラリスの前の椅子に腰掛けた。


「君は口がきけないそうだね。……今までは弟が側で君の意志を伝えていた、ということかな」


 膝の上で拳を握り、俯くクラリスを見る目は鋭い。たとえ相手が子供であっても偽りは許さないだけの迫力があった。


「今ここで、君自身が言いたいことはないのか。なければ先ほど部下が伝えたとおり、君は教会へ、弟の……ヴィクは孤児院へ行くことになる」


 サッと顔を上げたクラリスと、王都レスターの警察で特殊事件を担当する警視監ロナルド・ストロングは視線を交わし合った。

 

 命に代えても弟を護る。それには自分が側にいなければならない。そして、教会や孤児院のような、不特定多数の人物からの接触を受け入れざるを得ない環境に弟を置く訳にはいかなかった。なぜなら、篤志を理由に孤児を引き取ろうという態で叔父の手の者が近寄ってくるかもしれないからだ。


 クラリスの脳裏に一人の男が浮かぶ。

 黒髪で、冴えた青い目をした背の高い男。人身売買の現場で自分たちを買い取ったのだから、清廉潔白な人物ではないのだろう。だがそれでも、自分の前に跪きその目を見た瞬間のことを、クラリスは忘れられなかった。

 蔑みの色や好色さなど一切ない、どこか案ずるような、気遣うような目をしていた。


 ルフトグランデとシエルハーンで使用する通貨は異なるが、それでもあの時自分たちを買った二千ゴールドがどれほどの大金だったのかは分かる。

 クラリスは一度目を閉じ、そして開いて口を引き結んだ。目の前に複数の路がある。そのうちの一つを、自分自身で選択するのだ。


 クラリスは右手を軽く握り、左右にゆるゆると揺り動かした。ロナルドたちがその仕草に理解を示すのと同時に口を動かす。


 ――ペンと紙をください


 ロナルドはそれを予想していたかのように、すぐさま求めに応じた。

 







 キラキラ、と銀の糸が舞う。

 いや、銀ではない。これは……白金か。所どころに黄金の筋が混じる糸が束になり、優雅に宙を舞っていた。

 その間をヒラヒラ……と蝶が飛んでいる。

 紫色の小さな蝶だった。

 フワフワと舞う白金の糸の束と、その隙間を器用に飛ぶ紫の蝶。糸に交じる黄金色が白い世界で光を反射して輝き、目にも綾な情景となった。


 ヒラヒラと飛ぶ蝶を捕まえたくなって手を伸ばした。

 スイ、と手の平をすり抜けていく。奇妙なほど焦燥が募り、どうあってもその蝶を捕まえなければならないと強く決意する。

 右手を伸ばし、左手を上げ……幾度も失敗した末に、両の手の平にようやく一匹の蝶を閉じ込めることができた。

 潰してしまわないよう、逃がしてしまわないようそっと手を開く。

 だが、そこにあったのは蝶ではなく、一輪の菫の花だった。


 ――菫の花の色……どこかで見たような……


「お兄様、起きてちょうだい」


 シャッ、というカーテンを開く音と同時に、閉じた瞼の上に光を感じた。

 微睡んでいたアレクシスは、無意識に光を避け藍鼠色の最上級リネンに潜り込んだ。夢の中で合わせていたはずの両手が離れていることに気づき、捕らえていた何か大切なものを逃がしてしまったような気持ちになったが、覚醒しきらない頭がすぐにそれを忘れ去った。それよりも切実な、身に迫った事情があったからだ。


「さ、早く! もう時間がないの。急いでくださらないと困るわ」


 アレクシスの妹、ジュリアナ・マーガレット・ハーヴェイの声がした。

 眠っているアレクシスの部屋に許可なく入り、カーテンを開けたのはジュリアナだ。ハリントン男爵家の当主に向かってこんな口を利けるのは三人しかいない。ジュリアナか、父の代から男爵家の家令を務めるバリー・ダンカン、そして三年前に亡くなった母が病に倒れたのと同時にアレクシスへ家督を譲り、今は母の遺影を胸に世界中を旅している父ゲイリー・ジョナサン・ハーヴェイだけだ。

 昔から寝起きの悪いアレクシスを起こしてくれた母と同じように、彼の妹は容赦なくリネンをはぎ取った。

 伯母であるバークリー公爵夫人エメラインから頼まれて従兄弟のドミニクを救出した後、先約だった友人と飲みにいき朝帰りしたはずの兄だ。つい先ほど風呂に入ったばかりなのだろう、アレクシスから天然香料と極上のオイルをたっぷり使った石鹸がふわりと香る。


「ロナルド様から先触れがあったの。きっと昨夜の件で何かお話があるんだわ。シャワーを浴びて、シャキッとしてお迎えして欲しいの」


 以前、街でちょっとしたトラブルに巻き込まれたところを助けられてから、ジュリアナはロナルド・ストロングに夢中だ。

 これは傍目にも驚くほどの惚れ込みようで、二十歳のうら若き令嬢と、三十二歳で平民の、しかも婚姻歴のある――妻は若くして亡くなった――男とではつり合いが取れないと周囲に批判されればされるだけ、ジュリアナの気持ちは募るばかりだ。

 当然のように反対するかと思われたアレクシスは、周囲の予想に反してあっさりとそれを容認した。妹の幸せを願って……などという愛情溢れる理由ではなく、何事も自分で経験しなければ分からないこともあるというある意味冷静な判断によるものであり、一度言い出したら聞かない妹の性格を熟知しているからでもある。また身分で言えばハリントンは下位貴族なのだから平民との結婚を厭うことはないし、国内外の貴族と政略結婚させる旨味は――少なくともこちら側には――ない。



 

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