第二章
王女クラリス
クラリス・ウィニフレッド・シエルハーンは途方にくれていた。
そして困惑し、恐怖に怯え、疲労の極みにあり、おまけに空腹で目が回りそうだった。
国を出てからずっと、弟を護らねばならないという緊張感でぴんと張り詰めていた神経が、ここにきていよいよ途切れそうになっている。
「名前を教えてくれるかな? 生まれはどこ?」
クーパー商会から警察に移送された後の、事情聴取という名の取り調べの真っ最中だ。弟と別の部屋に入れられたのは口裏を合わせないようにするためか。
クラリスを担当するのはまだ若い、髭も生えそろっていないような若造だったが、年の近い者のほうが心を許すとの配慮かもしれない。
「お父さんか、お母さん……お兄さんやお姉さんでもいいけど、誰かいる? 迎えに来てくれそうな人が」
クラリスは黙っていたが、それは別に警察を拒んでいるからでも軽んじているからでもない。黙ったままうつむくクラリスに、若い警官はがりがりと頭を掻いた。
「うーん、もしかして僕には話したくないの? でも、他の連中じゃきっと話し辛いと思うんだけど。だってさ、縦も横もぼくの倍くらいあって、顔は熊みたいなおっさんだらけなんだよ? 今のうちに話しておきなよ」
クラリスはちら、と視線を上げ、そしてまたうつむいてしまう。何を言えばいいのか分からないということもあるが、もっと別の切実な理由があるからだ。だが、どんな状況であってもクラリスの優先順位は弟だ。人身売買の現場から逃れることができたとはいえ、未だ二人を取り巻く環境は好転したとは言えない。どうにかして自分の事情を伝え、何よりも弟と二人で暮らせる方法を探らなければならなかった。
決意したクラリスが顔を上げた時、困った様子の警官は戸口に立つ仲間に声をかけた。
「とりあえず孤児院に空きがあるか確認しておいてくれないか。この子は年齢的に無理だろうけど、弟のほうだけでも面倒を見てもらわないと」
そして警官は励ますように微笑みながら、青ざめたクラリスに向き直った。
「心配しなくていいよ。きみをいきなり放り出すようなことはしない。でも孤児院はきみの場合、少し難しいんだよね、入所できるのが十二歳までだから。だからしばらく教会に身を寄せて、それから仕事を探せばいいよ。保証人は警視監に頼めばいいから。あの人、案外面倒見いいんだ。あ、もちろん身元を引き受けてくれる人がいるなら話は別だけど……その様子じゃあ、誰もいないよね」
身元を引き受けてくれる人など誰もいない。微動だにしないでいると、警官は小さなため息をついた。
「……うん。じゃあ仕方ないけど、これは決まりだから。きみたちはどう見ても人身売買の被害者だし、犯罪に手を染めているようにも見えない。弟とは離れ離れになってしまうけど、仕事が見つかればそのうち一緒に暮らせるようになるから。だからもう聴取はお終いにして――」
ガタッ、と音を立ててクラリスは立ち上がった。こんな異国で、弟だけを孤児院に入れるなんて絶対にできない。だって弟は、ヴィクターは――……
――シエルハーンの、正統な王位継承者なのだから。
はく、と口を何度も動かしたクラリスは、両手で喉を押さえもう一度口を開いた。だが、ふっくらとした薄紅色の唇から言葉は出ず、ただひゅうひゅうと空気が鳴るだけだ。
それを見た警官は目を見開き、驚いた様子で尋ねた。
「まさか、きみ……喋れないの?」
クラリスは細い指を喉に当てたまま、こくりと頷く。肩につかない長さの髪が揺れ、胸の悪くなるような匂いが鼻腔を衝いた。その匂いはきっと部屋中に広がっているはずなのに、警官たちは慣れた様子で顔をしかめもしない。むしろ今は目の前の聴取対象者が黙りこくっていた理由がようやく分かり、少し慌てているようだった。
路上生活をしていた孤児だ。文字を読めるとは思っていないのだろう。迷った結果、警官は指示を仰ぐために部屋を出ていった。
◆
ルフトグランデ王国の南東、切り立った山稜に埋もれるような場所にシエルハーンはあった。
元々はエーベルの地方領であったのが、功を立てた者にその地を与えられ、独立を許されたのだ。
実際のところ功を立てたというのは口実で、王位争いに敗れた王家嫡流の者を、陸の孤島であるシエルハーンに流しただけのことのようだ。死刑宣告にも等しいその沙汰を、シエルハーンの初代国王は粛々と受け入れたという。
あまりにも便が悪い地であることと、農業以外さしたる産業がないこと。また主要な交易路から外れていることもあり、シエルハーンは栄えることなく、かといって衰退することもなく細々と存続してきた。
穏やかな王としっかり者の王妃。クラリスの両親は、国民を第一として善政を敷いた。そしてクラリスは王太子である兄や年の離れた弟と、つつましくも幸せに暮らしていたのだ。
何より楽しかったのは、どうすればシエルハーンをもっと豊かにできるかと兄妹弟三人で話し合うことだった。
国の成り立ちはエーベルが源流だが、今勢いがあるのはルフトグランデだ。国を富ませるために重要なのは学びだとして、各種産業の栄えるルフトグランデへ優秀な者を留学させてはどうかと三人はしばしば話し合った。実際に兄は国費留学の実現へ向けて父や大臣へ提言することもあった。
しかし、父王の弟である叔父のダントン公の考えは違った。手っ取り早く国を富ませ国土を広げるためには武力行使が不可欠であるとして、軍部と協調して主張していた。
小国シエルハーンが、いったいどうすれば戦で領土を広げられるというのか。王はすぐさまそれを退けたが、叔父たちは過去のザンギルとルフトグランデの戦いに倣うべきだと強硬だった。
王と王弟の間にできて亀裂は、やがて誰の目にも明らかになった。それでも血の繋がった兄弟だ。だからクラリスは夢にも思わなかった。叔父が、兄である王を弑して玉座を手に入れようとしているとは。
その日。十八歳になったばかりのクラリスは、母からそろそろ嫁ぎ先を決めると言われて沈み込んでいた。まだ自分には早いと思っていたし、何より兄たちと一緒にこれからも国を盛り立てていきたかった。
――シエルハーンには手つかずの自然と、傷によく効く温泉があるわ。これを整備して、近隣国の保養地にできないかしら。
両親に呼ばれて謁見室に入ったクラリスの思いは、叔父が起こしたクーデターによって霧散した。
目の前に広がる赤。うめき声と、倒れ伏す人々。
叔父の凶刃に倒れた両親のすぐ傍で、兄は叔父の私兵と剣を斬り結びながら叫んだ。
『逃げろ! ヴィクを護るんだ!!』
『兄さま!』
『ヴィクがいれば国は再建できる! 正当な王の血脈だ、ヴィクを旗印にして民を集結させろ!』
ルーカスの言葉に反応した逆賊が、真っすぐクラリスに向かってくる。それを必死で食い止めながら、ルーカスはまた『早く行け!』と叫んでいる。
『姫様、失礼いたします』
足が竦んで動けないクラリスを、護衛騎士がサッと抱きかかえた。嫌だと口にしたくともできず、必死に振り返り視線だけで兄を追いかける。三人がかりで兄を取り囲んでいた兵の刀が、兄の腕を裂いたところで広間の奧の隠し通路に入り、それきり何も見えなくなった。
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