悪徳商人の受難
アレクシスは上着の内側に手を差し入れると、不吉な黒い拳銃を抜いた。また悪ふざけをするつもりなのだろうか。不思議そうなブランドンを横目に見ながら、アレクシスはにやりと笑う。
「悪いなブランドン。端数の五十ゴールドは天井の修理代だ」
言い終わるか終わらないかのうちに、天井に銃口を向けた銃が火を噴いた。
「ぎゃあー!!」
ビリビリと耳を聾する爆音が響き、銃弾の食い込んだ天井から細かな漆喰の欠片が落ちてくる。ブランドンは両手で耳を押さえて床にへたり込んだ。
「銃声だ」
「あの部屋だぞ!」
「こっちだ!」
まるで何かの合図だったかのように、どやどやと制服姿の男たちが部屋に入ってくる。
「ハリントン卿」
一番最後に踏み込んできた口髭の男が、厳しい顔でアレクシスに歩み寄る。先に突入した男たちと同じ制服だが、肩についている記章の数と態度で地位の高さが見て取れた。
「またこのようなスタンドプレーをなさって。今度こそ我々にお任せくださいとお伝えしたではありませんか」
「手間をかけさせたな。だが、不肖の従弟の尻拭い役は俺が務めることになっている。……不本意なことだが」
不肖の従弟、の部分で台車の上の男を顎先で示した。それを目で追いながら、口髭の男は渋面になる。
「せめて我々の準備が整ってから潜入していただけたならどれほどよかったか。あなたの行動が素早すぎて、令状に長官が印を押しているのを待つ間、私がどれほど気を揉んだと思っているんです」
「仕方がないだろう。今夜は友人と約束があるんだ。悠長に待ってはいられないんだ」
男は大きなため息をつき、ワゴンに置かれた黒い仮面を見下ろした。
「そのご友人とのお約束で使う装束ですか」
「ああ、これか?」
仮面へ落とした視線は、興味なさげにすぐ逸らされる。
「こういう趣向もたまにはいいかと思ったが、そう面白くはなかったな」
「たとえ顔を隠されても、こんなに派手に動けば素性はすぐに割れてしまいますよ」
呆れたように指摘した男が、今度はへたり込んだブランドンの周りに散らばる小切手を見咎めて目を吊り上げた。
「また小切手などお使いになって! 犯罪組織と取り引きをした証拠になるからやめてくれと、あれほどお願いしたではありませんか!」
「そう言うな。お前たちの到着が遅れたせいでもあるだろう」
「そもそもあなたのような立場の方が危険を犯し、自ら潜入する必要などないのです! ……あなたの妹さんからも、大変な苦情が届いているというのに」
「やめられるならとっくの昔にやめているさ。あの馬鹿は賭博場で借金を作るだけでなく、それを肩代わりしてやると甘い言葉で誘われてこんなところまでやってきたんだぞ。まったく、黙って債務者監獄に入っていればいいものを」
会話の合間にも、警官と用心棒たちの叫び声や乱れた足音、肉と肉のぶつかる鈍い音が響いている。
「あのお方については、公爵夫人から面倒をみるよう頼まれていらっしゃるとは伺いましたが」
「ああ。伯母上の頼みでなければ、あいつがどうなろうと知ったことではないんだが」
伯母上。二人の会話を聞いていたブランドンは、先代のハリントン男爵に嫁いだ令嬢が大変立派な家柄だったことをようやく思い出した。
当時のブランドンはまだ商売を始めたばかりで社交界の事情に疎く、貴賤結婚と騒がれた婚礼にもまったく興味を持たなかった。男爵夫人が若くして亡くなったこともあり、今の今まですっかりその事実を忘れていたのだ。
そして確か、夫人には双子の姉妹がいたはずだ。おそるおそる舞台の上に目を遣ったブランドンは、目の前の客と
「一杯どうだ」
ワゴンに置かれたワインを片手でグラスに注ぎ、ひと息に飲み干したアレクシスは、口髭の男に同じものを勧めた。
「職務中ですので」
「相変わらず固いな、お前は」
「あ、あのう……」
割って入ったのはブランドンだ。彼は床に座り込んだまま、情報量の多すぎる事態を消化できず混乱しきっている。
「どうした」
「ええ、あの、何と申し上げればよいやら……」
へたり込み、髪を乱したブランドンの目は大きく見開かれている。狡猾で知られたクーパー商会の会頭とは思えない、子供のようにあどけない顔だ。
彼は何を尋ねればよいか分からない様子でアレクシスと口髭の男の顔を交互に見ていたが、やがて一番簡単な質問を口にした。
「貴方様は、どなたでしょうか」
口髭の男を指しているのは明らかだった。アレクシスは頷き、グラスを持つ手とは反対の手を差し伸べた。
「紹介しよう。彼はロナルド・ストロング。このたび
ロナルドと紹介された口髭の男は、両の踵をカチンと音を立てて合わせ敬礼した。
「ロナルド・ストロングと申します」
それは、クーパー商会の会頭に対する挨拶というよりも、紹介された相手への脊髄反射的な反応だった。しかし、そんなことを知る由もないブランドンは驚いて目を白黒させている。
「ロナルドは妹の想い人なんだ」
またしても爆弾発言が投下された。ハリントン男爵家の令嬢と警察官。もはやその組み合わせが妥当かどうかも分からない。しかし、紹介された当のロナルドはクッと眉間に皺を寄せた。
「ハリントン卿。そんな出鱈目を事実のようにお話しになっては困ります」
「何を言う。ジュリアナからは何度も思いを告げられているだろうに」
「いいえ。何度も申し上げましたとおり、あれは単なる憧れのようなものです。レディ・ジュリアナのお気持ちに応えることはできません」
潤んだ目で二人を見上げるブランドンの視線を感じ、ロナルドは周囲を見回した。
粗方片付いたようだ。部下たちは台車の上でいびきをかいている男をどうにか起こそうと苦心しているが、まだ目覚める気配はない。用心棒は全員捉え縄を打ってある。ロナルドはブランドンの前へ膝をついた。
「ミスター・クーパー。貴方には今から我々の質問にお答えいただかねばなりません」
「質問」
「はい。盗難と誘拐、そして人身売買についてです」
曇りのない目でじっと見返され、ロナルドは内心首を傾げた。悪事に手を染めたとは思えない澄んだ目をしている。それは単に彼がアレクシスに翻弄され、思考がオーバーフローしてしまったことが理由なのだが、もちろんロナルドに分かるはずもない。
アレクシスは空になった自分のグラスと、もうひとつ空いたグラスにワインを注いだ。
「どうしたブランドン。しっかりしろ」
「はあ、しっかりと」
「さあ。気付け代わりに飲むがいい」
「ハリントン卿、今から取り調べが」
「ワインを一杯飲んだからといって、何も変わらないさ。却って頭がはっきりするくらいだ」
握らされたグラスとアレクシスの顔、そしてロナルドの顔を順繰りに眺めていたブランドンは、ゆらゆらと身体を揺らしたかと思うとクルリと白目を剥き、グラスを握ったままばったりと後ろに倒れた。口をつけていないワインは絨毯に吸い込まれていく。
アレクシスとロナルドは顔を見合わせ、床に転がる悪名高いクーパー商会の会頭と、縄を打たれ主と同じように床に伏せている護衛たちに目を遣った。
ブランドン・クーパー四十九歳。クーパー商会の会頭としてどんな悪事にも躊躇わず手を染め、死神だとか人の生き血を吸う蛭とまで罵られることを厭わない、掛け値なしの悪徳商人。
数々の修羅場を潜り抜け、少々のことでは動じないはずの彼が、生まれて初めて気を失った瞬間だった。
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