二つの取り引き
やはり、この客は特別だ。おそらく商売人としての自分が、一生に一度出会えるかどうかというほどの。
ところが胸を熱くしたブランドンの前で、ミスター・Aは兄へ手を延ばすどころかそのハンカチで自分の鼻を覆い、一言だけ言った。
「
「何でですか!!」
ブランドンはついに喚いた。
「臭いのはあなたのせいですよ! 支度が必要だと言ったのに、すぐに連れて来いと言ったのはあんたでしょうが!!」
豪華に設えた秘密の部屋の中で、ブランドンの喚き声が響きわたる。ミスター・Aはハンカチで鼻を覆ったまま軽く顎を引いた。
「別に文句を言っている訳じゃない」
「そういう問題じゃないですよ! こっちの手順を無視して勝手なことばかり言って! 感動した私の心を返してください!!」
「何をそんなに怒っているんだ」
喚きすぎて肩で息をするブランドンを尻目に、ミスター・Aは実に優雅に立ち上がった。
「で、どうするんです? 買うんですか買わないんですか」
最早客に対する態度ではなくなっているが、ブランドンにはもうどうでもよかった。この客には一刻も早くお引き取り願いたい。
ミスター・Aは立ったまま、舞台の上の兄弟を変わらずじっと見つめている。本来なら風呂に入れ全身ピカピカに磨き上げて、念入りにグルーミングしたうえで客の前へ連れ出すべき商品だ。うす汚れ異臭を放ったままの状態では、客の購買意欲も落ちるというもの。だからブランドンは全く期待せずに、あくまでも形式だけのつもりで尋ねたのだったが。
「……いいだろう。いくらだ」
「へ」
間の抜けた声を出したブランドンは、客が示した購入の意思を理解してにわかに慌てだした。
「えっ!? か、買われるんですか、本当に?」
「だから買うと言っている。いくらなのか金額を言ってくれ」
「は、はあ……」
半信半疑のまま、どこか遠慮がちにブランドンは答えた。
「一千ゴールドなんですが……」
「ふむ」
一ゴールドあれば、四人家族がひと月楽に暮らすことができる。ブランドンが口にした金額は人身売買の基本価格ではあるものの、初めて取り引きする客にはサービスとして値引きをするのが慣例だった。少々ふっかけすぎただろうか。考える素振りの客を前にして、ブランドンは珍しく迷っていた。
いつもは顧客の要望に応えるため、入荷から出荷までそれなりに時間をとり、必要に応じて各種教育を施している。その期間と費やした費用で販売価格が変動する仕組みだ。
それが今回は孤児をさらってきただけの、いわば元値はただの商品。しかもグルーミングすらしていない、入荷したてのホヤホヤだ。ミスター・Aが「入荷」をどこで聞きつけたかは知らないが、もしや自分好みに育てたいなどの理由があるのだろうか。それならばまだ幼い弟だけを所望している可能性もある。
「何ならバラ売りもできますが」
思わず口にした説明に、舞台上の兄が肩を大きく震わせてキッとこちらを睨みつけた。澄んだ菫色の瞳に、幼い弟を守ろうとする決意が現れている。
ブランドンは胸を痛めた。他人からどう見られているかはともかく、情に篤い男を自任する男である。だからといって悪業から足を洗うつもりはないがそれはそれ。自分にできる精一杯の優しさとして、やはりこの兄弟は二人揃って売ることにしよう。
ブランドンは決然と顔を上げた。そうだ、少々高値をつけたっていいじゃないか。むしろ、ミスター・Aの相手をすることで被った精神的疲労に対する慰謝料を上乗せしたいくらいだ。
まだ何か考えている様子の客に向かい、バラ売り発言を撤回しようとブランドンが口を開いた時、ミスター・Aは上着の内ポケットへ右手を入れた。
「では、二人分で二千ゴールドだな」
取り出した小切手にサラサラと金額を書いている。ブランドンは二重の意味で仰天した。明らかに違法な取引だと知りながら、現金ではなく足のつきやすい小切手を使う無防備さと、高額な代金をこともなげに支払おうとする無頓着さにだ。ちなみに先ほど伝えた一千ゴールドは兄弟二人合わせた金額である。
「え、は。二千。そうですか」
「なんだ。違うのか」
「いえいえいえいえ! その金額で、はい。間違いございません」
なんということだろう。ブランドンは有頂天になった。
これほど気前のいい客もそうそういない。大変な目に遭わされはしたが、終わりよければすべてよしだ。
しかし、両手を捧げるようにして小切手を受け取ろうとしたブランドンの目の前で、差し出された小切手がツイと持ち上げられる。長身のミスター・Aが手を伸ばしてしまえば、ブランドンには手が届かない。
「ブランドン」
「…………何でございましょうか」
「他にも『商品』が入荷しているという話を小耳に挟んだんだが、実は俺の本命はそちらのほうでな。それも一緒に購入しよう」
ブランドンはしばし唖然とし、そしてハッとして頭を下げた。
「生憎ではございますが、そちらは……他のお客様からのご希望で、用意したものでございますので」
「先約があるから、俺には売れないと?」
「……替えの利かない特別な『商品』でございます。入手に至るまで様々な経緯がありますもので、到底他のお方にお売りすることは出来かねます」
ブランドンは再び頭を下げた。
実のところ話題に上った商品とは、とある高位貴族の子弟なのである。さる断れない筋からの依頼でその商品――賭博で大変な借金を背負った世間知らずのボンボン――の弱みを探り罠にはめ、苦労の末にようやく手に入れられたところなのだ。
もちろん情報は厳秘だ。ただでさえ危ない橋を渡っているというのに、名家の跡取り息子を人身売買の商品にしたなどと明るみに出ればブランドンはお終いだ。いかに依頼主が力を持っていようと、平民の商会主を守ろうとする酔狂な客がいるはずもない。
そんな取り引きに、抜け目のないブランドンが細心の注意を払うのは当然のこと。にもかかわらずミスター・Aを名乗る客は、あたかも公知の事実であるかのように「商品」について言及している。一体どこから情報がもれ、どんなルートでこの男の耳に入ったのか。
戦慄のあまり滝のような冷や汗をかくブランドンに、ミスター・Aはふむ、とうなずいた。
「先客があるのならば仕方がないか」
「はい。誠に申し訳のないことではございますが、私としてもお約束した商品をお客様へお納めしなければ、商会主として面目が立ちません」
「なるほど。おまえの信用に関わるというわけだな」
「ええ、おっしゃるとおりで」
どうやら納得してもらえそうだ。形の整った指先で椅子の肘掛けをトントンと叩いている客を横目に安堵の息をつこうとしていたブランドンは、次いで発せられた言葉に愕然とした。
「では、この金額の五倍出そう」
ブランドンはぽかんと口を開けた。
「……この金額、とは」
「二千ゴールドの五倍だ。もちろん、あの兄弟の分とは別で」
「はぁっ!? い、一、一万ゴールド!?」
思わず叫んだブランドンに、ミスター・Aは唇の端を少し持ち上げる。
「あなた正気ですか!?」
「勿論正気だとも」
「いや、いくら何でもそんな法外な」
「値切って文句を言われるならともかく、多く出すのに何の問題がある」
「問題、って」
「どうするブランドン」
「五倍……一万ゴールド……」
目を白黒させるブランドンへ、ミスター・Aは澄ました顔で駄目押しした。
「その『商品』が背負った借金は別で支払おう」
「売ります」
「それでいい」
満足げな客を前にして、ブランドンは半ば呆然としていた。
純利益で一万ゴールド。それを、たった一つの取引で。
「さあブランドン。商品を持ってきてくれ」
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