第16話 和解

 朝比奈京子は古澤倫太郎の匂いを嗅いだ瞬間、昔の思い出がフラッシュバックした。


 自分と夫はいわゆる上流階級に属する人だ。それゆえ縛りやしがらみなども多々ある。だが、結婚する前の自分と夫は、自由気ままに行動し、お互いを愛し合っていた。彼といる1分1秒が大切で永遠にその時間が続けばいいのにと心の中でずっと思っていた。

 

 しかし、真礼が生まれ、夫も仕事などで家にはほとんど帰っておらず、寂しい日々が続いた。


 振り返ってみれば、娘を必要以上に追い詰めていたなと思う。寂しさを紛らすために、夫にもっと愛されたくて、娘を道具として利用していたのかもしれない。実は、ずっと前から薄々気付いていたのだけど、古澤くんの匂いを嗅いだら、今まで溜め込んでいた気持ちが、せきが切れたように溢れ出てきた。


 今、娘が愛する男は、自分が入れた睡眠薬によってぐっすり眠っていて、娘はそんな彼を心配そうに見つめて悲しんでいる。もちろん、命に支障をきたさない睡眠剤だけど、今、私は、自分自身を嫌悪している。


「お母さん……倫太郎くんをどうするつもりですか……」


 冷め切った声音で言葉を吐く真礼。いつも従順で、いい子だった自分の娘らしからぬ表情。


 今まで自分が知っている娘に対するイメージが完全に崩壊する瞬間だった。


「好きになさい……」

「お母さん……」


 もうなるようになれと心の中で叫びながら、私はは自分の部屋に入った。




古澤倫太郎side



 頭が冴えてきた。俺の体を圧迫してきた疲労感と倦怠感はもうない。感じられるのは、高級マッドレスと布団の柔らかい感触と嗅ぎ慣れたいい匂い。


「ん……」

「倫太郎くん!」

「真礼……」

「うん!私!」


 起き抜けの気だるさは存在しない。あるのは、学校で一番綺麗な美少女。きっとあれは悪夢か幻に違いないという、現実逃避的な考えが一瞬よぎったのだが、目の前にいる朝比奈真礼の顔を見ると、憂いと心配は杞憂に過ぎないという事実がもたらす安堵に変わる。


「それにしても、真礼のお母さん……中々強キャラだったな」

「うん……お母さんは、怖い人なの……」


 朝比奈真礼は顔に影を落として思い詰めた表情を浮かべる。その反応を見て居た堪れなくなった俺は、手を伸ばし、久しぶりに朝比奈真礼の柔らかい金髪をなでなでしてあげた。


「倫太郎くん……んにゃ」

「ここは真礼の部屋?」

「う、うん……」

「へえ……」

「にゃ、にゃにジロジロ見てんの……」


 ベッドに横になったまま、朝比奈真礼の部屋を見渡すと、朝比奈真礼が恥ずかしそうに顔を赤らめた。


 ぬいぐるみやら、本棚やら、服やらが見えており、年頃の女の子らしいかわいい内装である。いくら学校一と言えども、中身はJK。まあ、俺も一応DKではあるけど。男子(D)高校生(K)。でもDKってなんだか不動産業界で使う単語っぽいからしっくりこないんだよね。一人暮らしは1Kより1DK……なんちゃって!


 まあ、そんなクッソどうでもいいことを考えていると、偶然、ある写真が視界に入った。


「家族写真……」


 机の上に置かれている小さな額縁の真ん中には、幼いころに撮ったと思われる家族写真が飾ってあった。


「あ、あまり見ないで!恥ずかしいから!」

「あ、ああ。ごめん。幼い頃の真礼がかわいいからつい……」

「……」

「おい、真礼、なんか言って?流石に無反応だと恥ずかしいだけど?」

「……じゃ、ぎゅっと私を抱きしめてから頭をなでなでして……」

「わ、わかった」


 可愛い朝比奈真礼からの可愛いお願い。これを断る男は正直万死に値すると思います。俺は彼女から言われるがまま、マシュマロより柔らかい体を優しく抱きしめる。そして彼女はいつものように


「くんくんくん……くん……くんくん」

「……(なでなで)」

「くんくんくん……」

「……(なでなで)」

「くんくん……」

「……(なでなで)」


 欠けた穴を埋め合わせるように、俺たちはしばし甘い時間を楽しむ。


「二人とも……」


 京子さんの声が聞こえる前まで。


「ん!すみません!」

「ん!すみません!」


 俺たちはびっくり仰天していそいそ体を動かし、ベッドの上で正座した。お母さんがいるのに、娘さんと部屋でこんなことするなんて……もし俺がお母さんだとしても怒ると思う……

 

 だけど、京子さんは違った。


「真礼」

「ひゃ、ひゃい!」

「真礼はお母さんが、怖い?」

「あ……そ、それは……」


 おい、お母さん!?いじめられっ子に対して「俺、怖くないよね」と同調圧力かけるいじめっ子みたいな発言やめてもらえますか?と、心の中で文句をぶつけていると、朝比奈真礼がまた思い詰めた表情をする。このままだとまたさっきみたいになりかねない。手遅れになる前になんとか手を打たないと。


「あの……」

「お母さんが悪かった!」

「え?」


 京子さんは、ベッドで正座中の朝比奈真礼に飛びついて、思いっきり自分の愛娘を抱きしめる。


「私のことばかり考えて、真礼の気持ちを全然察することができなかったの……本当に、私は母親失格よ……うう……うええええええええ!!!!!」

「おお、おかあひゃん……息ぐりゅしい」

「真礼……ごめんね……私、真礼を幸せにする義務があるお母さんなのに……真礼……真礼!!!!!!!!!」

「うう……お母ひゃん……大丈夫だから……とりあえずこの胸を……」

「真礼……(ギュウウ)」

「……」


 おいおい、これ、やばいだろ!止めないと朝比奈真礼が自分のお母さんの胸によって窒息死しちゃうぞ……


 俺は冷や汗をダラダラとかきながら、美人親娘をなんとか引っぺがした。


 というわけで、今度は3人してベッドの上で正座している。二人が落ち着くまで気長に待っていると、いつもの調子を取り戻したらしい京子さんが、口を開いた。


「古澤くんにはひどいことをしてしまったわ……」


 申し訳なさそうに下を向いたまま自信なさ気に言った京子さんを見て俺は手をブンブン振る。


「い、いいえ。俺こそ、偉そうに説教じみたこと言ってすみませんでした」

「古澤くんは悪くないの。悪いのは私だから」

「いや、むしろ京子さんいは感謝しているというか、なんというか……」

「感謝?」


 京子さんはキョトンと可愛く小首を傾げながら俺を見つめてきた。やっぱり、学校一の美少女を産んだだけのことはありますね……


 うん……煩悩退散。

 

 俺は京子さんに対して、別に悪い感情などは持ち合わせていない。子は親の鏡という言葉があるように、朝比奈真礼が大好きな俺が、そのお母さんを否定するのは矛盾している。


 だから、俺は、自分の言葉でなぜ京子さんに感謝しているのかを伝えることにした。







「こんなに綺麗で可愛くて魅力的な真礼を産んでくれましたから(笑)」








「ん!(ドキュン!)」

「ん!(ドキュン!)」


 この部屋で聞こえるのは俺が放った澄み渡る声。今、俺たち三人はベッドで正座している。だから足が痺れるのも致し方あるまい。現に、俺の声を聞いた二人の親娘は、足を擦ったり、モジモジしている。


 そして



「古澤くん」

「は、はい?」

「ちょっといいかしら?」

「え?どうしたんですか?」

「もう我慢できない!!!!!!」

「ちょっと待って!京子さん?!」

「お母さん!?」


 京子さんは俺を押し倒して自分の鼻を俺にくっつける。腹部にマシュマロより柔らかい感触が……


「スンスンスン……はあ……この匂いを嗅ぐと、あの人との思い出が……スンスンスン」

「ちょっとお母さん!!!んんんん!私も!!」

「おい!いきなり二人は……」

「クンクンクン……これよ……この匂いさえあれば、余裕で神崎さんに勝てる!クンクンクン……はあ……」


 ちょ、ちょっと?流石に同時に二人を相手するのは……


 二人?


 俺、今まで神崎有紗と朝比奈真礼を飽きるほど甘やかしてきたキャリア持ちじゃねーか。就職する際に全く役に立ちそうにないキャリアだが、今においては、思う存分使わせてもらうぞ!


「やれやれ……世話の焼ける美人さんたちだこと……」


 そう小声で漏らしてから、俺は手を伸ばし、二人の頭を優しく撫で撫でしてやった。


 ていうか、めっちゃいい匂いするし、正直、理性が崩壊寸前だけど、少なくとも高校卒業するまでは我慢だ。我慢!!!!!


 かくして、朝比奈真礼と京子さんは、昔のようにあるべき関係を取り戻すことができ、かつ、俺と京子さんの間にわだかまっていた軋轢あつれきも無くなった。


 でも、なんだが取り返しのつかないようなことをしてしまった気がするけど……


「スンスンスン……古澤くん……」


 まあ、いっか




追記



 あと1話くらいで完結って感じですね。


 メインストーリーとは関係ない番外編(倫太郎と京子さんとの日常とか倫太郎と京子さんとの日常とか倫太郎と京子さんとの日常とか)も一応考えておりますけど、需要があればおいおい書くということで……



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