(二)奥州滅亡の謀略
東国の支配を認められた頼朝ではあったが、西国においては平家に与えられていた
武家の権限を継承して王朝国家を守護する立場にあった。
同一一八五年十二月、頼朝は『天下の
翌年三月、兼実は
国家の新たな体制を模索する。
・・・・・ 頼朝の目的は院の独裁を牽制することでな、九条兼実とは特に面識
はなかったようじゃ。兼実は藤原忠通の
教養人であるとの評判を見込んで推薦したと聞いておる。平家と親密だった近衛
家や木曾義仲と結んだ松殿家を好まなかった、という事情もあっただろうがの。
義経が奥州に逃れたことを知るや頼朝は、藤原秀衡の後嗣・泰衡に宛てて義経追討の宣旨を下すよう朝廷に奏上した。泰衡は衣川館に住む義経を襲い、義経主従を自害へと追いやってしまう。
・・・・・ 頼朝は、義経を追い詰めれば逃げ込むところは平泉しかないと予測
していた。むしろ、奥州に攻め入る口実を待っておったのじゃろう。奥州藤原氏
は金を産出するなど財力も高く、独立国として百年にも亘る栄華を誇っておっ
た。西国を支配する朝廷と平泉が手を結べば、鎌倉は挟撃に
たのでな。
とは言え頼朝としても、出羽入道の異名を持つ秀衡が健在なうちは安易に手が
出せないでいた。しかし秀衡の死後、鎌倉に対する主戦派と恭順派の間に
が起こり、奥州十七万騎とも恐れられた勢力は二つに割れておったのだ。
頼朝は抜け目がないでな、朝廷の命をもって泰衡に義経を討たせようと考えた。
こちらから奥州に攻め入れば、秀衡の遺言に従って泰衡と義経が一体となって
歯向かってくる恐れがあろう。そこで両者の間に
たのじゃ。
続けて頼朝は、義経を
八月八日の
九月三日、泰衡は自らの郎党の裏切りにより討たれ、その首は頼朝の元へ届けられた。
・・・・・ 頼朝が出陣した時、四宮は「既に義経は討たれた」として泰衡追討
の宣治は出しておらなんだ。何しろ平泉には随分と世話になっておったのでな。
しかし頼朝はそれに構わず、自ら兵を率いて奥州の征伐に向かったのじゃ。
武勇に名高い異腹の兄・国衡が阿津賀志山に
激戦の末に頼朝軍がこれを突破すると泰衡は平泉の館に火をかけて逃げ出して
しまったのだと。
朝廷はあわてて頼朝の元に宣治を送り届けたのだがな、既に泰衡が討たれた後の
ことであったわい。
清衡が建立した
残った。中尊寺
古くは一〇五一年、陸奥の安倍頼良が奥州南端の衣川を越えて南進してきた時、朝廷は源頼義を陸奥守に任じ、出羽の清原氏と連携してこれに勝利した。(前九年の役)
一〇八三年、清原氏に内紛が起こる。陸奥守となった源義家がこれを鎮め、清衡が
奥州藤原氏の初代当主となった。清衡とは前の戦で安倍氏と組んで戦った藤原経清の遺児である。敗戦の後、母が再嫁して清原氏の元に入っていた。(後三年の役)
以後、清衡は本姓の藤原を名乗り、京の藤原摂関家に金や馬を献上するなど朝廷とも良好な関係を築いていた。
・・・・・ 元々、奥州藤原氏は源氏と敵対する気持ちなど持ってはおらんか
った。秀衡とすれば、平家が西国、源氏が東国、自らは奥州を治める三国分立
が望ましいと考えておったはず。
しかし平家が滅亡したとあっては、源氏の血筋を受け入れることで奥州の独立
が安堵されれば良いとの思いがあったのではなかろうか。
中尊寺は奥州藤原氏の
しかし頼朝には奥州討伐への大義が無かった。八幡太郎義家が後ろ盾となって
築かれた奥州、これを頼朝は謀略をもって滅ぼしてしまったのだからな、罪の
意識もあって寺だけでも大切に保存したのであろうよ。
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