(一)幕府創設

治承五年(一一八一)閏二月、平清盛が世を去った。

「源氏の挙兵は院をお救い致すためのものでございました。もし院が平家の滅亡を

望まれないのであれば、東国は源氏の支配となし、西国はこれまでどおり平家から

長官を任ずるが宜しいでしょう」

関東平定を目指す頼朝は後白河法皇に和議を求める書状を送った。


  ・・・・・ 以仁王が討ち死にし、令旨の対象であった平清盛までいなくなっ

  てしもうた。大義を失っては、頼朝としても動きを止めざるを得ないわな。

  頼朝は、当時はまだ謀反人の立場にあった。四宮の宣旨に基づく源氏討伐軍と

  戦えば自らが朝敵となってしまうじゃろう。

  ここは朝廷に平家との和睦を求め、西国においては今まで通り荘園などの権限

  を預けてやれば良い。それと引き替えに、東国における所領管理などを認めさ

  せようという腹づもりだったのじゃ。


平家の後継となった平宗盛は清盛の遺言を理由に頼朝の提案を拒否、北陸に攻撃の

矛先を向けた。これを木曾義仲が討ち破り、平家一門を都から追い落とす。

ここに頼朝が東海道・東山道を、義仲が北陸から山陰にかけて、平家が安芸より西

の山陽道および鎮西を支配する三国分立の様相が出現した。

しかし大軍を率いて入京した義仲は、北陸宮の即位を求めて後白河法皇や廷臣たち

の反感を買ってしまう。法皇は義仲に平家追討を命じて西国に追いやると、一方で

頼朝には上洛を要請した。

頼朝はその要請には応じず、朝廷に恭順の意を示す書状を送った。これにより朝廷

は「平家追討における勲功の一は鎌倉(頼朝)殿、二に木曾(義仲)殿、三に新宮しんぐう(行家)殿」、と定めた。


  ・・・・・ 実を言えばこの頃、頼朝は東国の平定に手一杯でな、とても京に

  上るゆとりなど無かったのだ。とは言え義仲に京を握られたくはないのでな、

  「平家が押領していた院や公家の領地は全て朝廷に返還する」と、四宮が喜ぶ

  ようなことを言って恭順の意を示したのじゃ。

  その見返りとして頼朝は、北陸も含めて東国を管理下に置くことを求めた。

  「義仲は鎌倉の代官に過ぎぬ。嫡男を鎌倉で預かっているのが何よりの証拠」

  とまで言うてな。これで義仲の動きは完全に封じられてしもうた。

  四宮は頼朝の勅勘ちょっかんを解くと、平治の乱で失った従五位下・右兵衛佐に官位を

  戻し、東海道・東山道、更には事実上の北陸の支配権まで認めたのじゃ。


ようやく東国の平定を成し遂げた頼朝は、法皇の要請に応じて義経と中原親能ちかよし

代官として京に送り込む。

義仲は平家との戦いを切り上げて京に戻ると、後白河法皇を武力で拘束し強引に

頼朝追討の宣旨を出させた。頼朝は範頼に数万騎の軍勢を与えて義仲討伐を命じ、

義仲は粟津の戦いで範頼・義経軍に討たれてしまう。


  ・・・・・ 実は京に大軍を送るに当たってのことだがな、鎌倉では上総広常が

  頼朝の側近・梶原景時によって暗殺されるという事件があった。

  上総に大きな勢力を持つ広常は、日頃から御家人の代表として頼朝への御意見番

  を自負しておった。「源平の争いは板東武者の知るところにあらず」などと言う

  てな、京への進出に真っ向から異を唱えておったのじゃ。

  広常の暗殺は頼朝の指示によるものか、或いは景時の機転によるものか・・・、

  いずれにしても阿吽あうんの呼吸であったと言えようのぅ。


範頼・義経の源氏軍は平家追討に向け更に西へと兵を進める。一ノ谷に続き、壇ノ浦の戦いにも勝利してついに平家を滅亡に追い込んだ。

しかし義経は内挙を得ずに朝廷から任官を受けたことで鎌倉への帰還を禁じられてしまう。義経は頼朝に反旗を翻し、後白河法皇に頼朝追討の宣旨を求めた。頼朝は義経を討つべく黄瀬川に着陣、一方の義経には兵が集まらず戦わずして京を落ちることとなる。

文治元年(一一八五)、北条時政を代官として千騎の兵を与えて入京させると、頼朝の怒りを恐れた後白河は慌てて義経・行家追捕の院宣を諸国に下した。


  ・・・・・ 相変わらず、四宮の変わり身は早いわな。

  頼朝は義経と行家を捕らえるためとして、全国に追捕使ついぶし(後の守護)の設置を

  認めさせた。この任命権を公文所くもんじょ(後の政所まんどころ)に付与したことで、鎌倉に

  全国を統治する機能が整うこととなったのじゃ。

  更に現地の有力豪族を守護や地頭に任命した。これらは知行地の軍事・行政官の

  ことでな、地頭は頼朝に奉公することで領地の所有が保証されるという仕組みが

  出来上がった。即ち「ここに封建ほうけん制度が確立した」と言うても良かろうかい。


鎌倉幕府は侍所、政所、問注所もんちゅうじょで構成されている。侍所は御家人を統率する機関として、政所は知行国の財政・行政を担当する機関として設置された。問注所は裁判を扱う検察のような役割を担っている。

侍所の初代別当は和田義盛、政所と問注所はそれぞれ京から大江広元、三善康信など源氏と繋がりの深い公家が任命された。


  ・・・・・ 三善康信の母は頼朝の乳母・比企禅尼の妹に当たる。康信は流人るにん

  として伊豆国にあった頼朝に、弟を通じて月に三度、京の情勢を知らせるなど

  の協力を惜しまなかった恩人じゃ。

  大江広元は頼朝と親しかった中原親能の弟でな、兄の勧めで早くから京を離れ

  て鎌倉に出仕し、頼朝の代官として貴族との交渉などに活躍しておった。


  「いよいよ鎌倉幕府の始まりですね」、じゃと?

  『幕府』とは何か? 聞き慣れない言葉じゃな。まつりごとを行う所?

  それなら公文所のことじゃろかい。

  確かにこの年、鎌倉に統治機構が整ったことは間違いない。しかし依然として

  朝廷の組織の中に組み込まれておったことも確かじゃ。

  細かな理屈は分からんがな、鎌倉に朝廷から独立した武家政権が樹立できたと

  言えるのは、後に四宮が死んで、頼朝が念願の『征夷大将軍』に任じられた時

  からであったと儂には思えるのだが。

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