(三)腰越状
平家との戦いの後、範頼は鎌倉に戻った。一方、義経は後白河法皇の要請に応じて、
京に残って治安の維持に当たることとなった。
ここで義経は
ちなみに義経を示す
・・・・・ 「鎌倉の承諾なく朝廷から官位を
東国が真の独立を果たす、その為には京に人事権を握られぬことと、あれほど
頼朝から固く禁じられておったに。あろうことか、義経に従う後家人二十三人
もが共に任官を受けてしまうとはな、四宮が義経を直属の軍として抱えようと
目論んでいたのは見え見えであろう。
目付として同道していた梶原景時が再三に亘って辞退するよう
義経は「法皇に認められた」と舞い上がってしもうてな、「官位を賜るのは
源氏のため」と主張して言うことを聞かなんだのじゃ。
四宮は義経の性格を見抜いておったのであろう。官位を与えて手懐け、頼朝へ
の対抗馬にしようと画策した。有力な武将同士を反目させて力を削いでいくと
いうのは朝廷の
頼朝は義経を平家追討軍からはずし、鎌倉から再び範頼を総大将として西国に派遣
した。しかし水軍を擁する平家に範頼は苦戦を強いられる。
やむなく頼朝は京から義経を出陣させた。名誉挽回に
奇襲を仕掛けてわずか三日で平家を追い落としてしまう。
平家を見限った伊予や紀伊の水軍が次々と源氏に寝返り、
は祖母の二位の尼(平時子、清盛正室)に抱かれて入水、平家の
・・・・・ 頼朝は範頼に、やみくもに兵を動かさぬよう指示を与えていた。
四宮によって践祚した
神器は依然として安徳天皇が保持していたのでな。
ところが義経は、壇ノ浦では船の漕ぎ手を
手を用いて強引に平家を追い詰めた。その結果、三種の神器のうち
安徳天皇や建礼門院を無事に保護し、三種の神器を手に入れて四宮との交渉を
有利に運ぼうと考えていた頼朝の狙いは、義経の
にされてしまったのじゃ。
頼朝は平家追討の功により従二位に叙せられた。
文治元年(一一八五)、義経は平家の総帥・宗盛父子を捕らえて
平氏追討で義経の補佐を務めた梶原景時から「義経が内挙を得ずに朝廷から任官を
受けた」とする
頼朝は義経を
・・・・・ 義経は帰途、近江国で宗盛父子処刑した。平宗盛は情けない奴だ
とか言われておるがな、実は争いを好まぬ愛情豊かな人物だったと聞いておる。
平氏そのものが公家化しておったからな、清盛の後継として宗盛に求められた
のは武よりも文であったのじゃろうて。
京に戻った義経は、朝廷から賜った所領や権限を全て頼朝に没収されたことを
知った。義経は頼朝を深く恨んで、「鎌倉に怨みを成す
そう言い放って
そうそう、奴は女に対しても無防備じゃった。
義経は頼朝の勧めにより有力後家人である河越重頼の息女を娶っていた。しかし
平家が壇ノ浦に没した後、京で平時忠の娘を妻に迎えたのだ。
よりによって時忠とはな・・・、あの「平家にあらずんば・・・」とほざいた男
じゃぞ。義経がかつての平家の地位を継承しようとした動き、とも疑われよう。
これも四宮の筋書きであろうが、とうてい頼朝が容認できるような話ではないわ
な。
景時は頼朝の目となり耳となって的確な情報を鎌倉に伝えていた。目付としては
上々だがの、しかし厳しすぎるのも少々困ったもんじゃて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます