(二)戦の天才

治承四年(一一八〇)、以仁王の令旨を受けて兄の頼朝が兵を挙げた。富士川の

合戦で平氏を敗走させた頼朝は駿河国黄瀬川に帰陣する。

こうした京や東国の動きは平泉にももたらされており、「時は来たれり」とばかり

義経は勇んで奥州を後にした。


  ・・・・・ 藤原秀衡は佐藤継信・忠信兄弟ら二十騎余りを同道させた。

  数こそ多くはなかったが、これらの兵は平泉のりすぐりでな、義経は奥州

  藤原氏の期待を背負っての参陣であった。

  この時、義経は二十二歳、頼朝とちょうど一回り違うのじゃな。二人は手に

  手を取って、涙ながらに再開を喜んだという。


しかし、鎌倉に戻ったところで最初の軋轢あつれきが生じる。

鶴岡八幡つるがおかはちまんの宝殿の上棟式で、頼朝は義経に祝いの馬の引き手を命じた。馬の引き手、それは家臣の役目であり、義経は雑務を仰せ付けられて不満をあらわにする。

頼朝はその場で義経を厳しく叱責しっせきし謹慎を命じた。


  ・・・・・ 義経には、自分は将軍の弟だというおごりがあった。しかし頼朝に

  とっては義経も家臣の一人に過ぎんのじゃ。義理の親であり、決起の頼みでも

  あった時政でさえ家人けにんとして扱っておったでな。

  平家は身内ばかりが栄華を極めたことで、周囲の不満が嵩じて滅亡へと繫がっ

  ていった。本領も無く譜代の家臣を持たない頼朝はこれを他山の石としてな、

  自らを支える家人を身内同様に大切にしておった。家人に「御」の字をつけて

  『御家人ごけにん』と呼ぶようにしたのもそれが故のことであろう。

  これから始まるであろう平家との戦を考えると、源氏軍の大将には直系である

  範頼のりよりや義経をえざるを得ない。何かと将軍の弟としての風を吹かす義経には

  家臣としての立場をきっちりと理解させておかねばならんかった。

  加えて周囲の御家人たちにも、それを見せしめておく必要があったのじゃ。


寿永二年(一一八三)七月、平氏を都落ちに追い込んだ木曾義仲が堂々入京した。

しかし義仲は、後継天皇に自らが擁立した北陸宮を据えるよう主張して後白河院の

怒りを買ってしまう。

院は頼朝に上洛を要請し、頼朝は代官として義経を都へ派遣する。しかし、京では

義仲が後白河院と袂を分かち法住寺合戦が勃発していた。頼朝は急ぎ範頼を総大将

に任ずると、三万騎の大軍を与えて出陣させた。

翌年正月、範頼軍は近江瀬田から、義経軍は山城田原から総攻撃を開始する。

義経は宇治川の戦いで志田義広の軍勢を破り、粟津の戦いで義仲を討ち取った。


  ・・・・・ 義経一行が近江まで達した頃、都では義仲が朝廷と武力衝突する

  事態となっておった。しかし義経は僅か五~六百の兵しか率いておらず、直ぐに

  は京に入ることができなんだ。

  頼朝は、まさか義仲と戦になるとは考えてもおらんかった。そりゃそうだろう、

  嫡男の義高を握っておるのだから。自分の代わりに義経を送って、義仲の動きを

  抑えれば良いぐらいの気持ちだったのじゃろうて。

  義経からの飛脚で事態の急変を知らされた頼朝は、ありったけの兵を範頼に与え

  て義仲の討伐を命じた。もたもたしておっては源氏の全てが逆賊とされてしまう

  恐れがあろうからな。

  可哀想なのは義高じゃ。政子と大姫が密かに逃がしたのだが、頼朝の家人に見つ

  かって斬首されてしもうた。義仲を討った頼朝は親の仇とされるでな。

  しかし大姫は悲しみのあまり寝込んでしまう。政子も義高を可愛がっておったの

  で怒りが収まらんかったのであろうな、その家人を捕まえて梟首したという。


京を平定した源氏軍は福原に陣を敷く平家軍と対峙たいじする。

一方の平家は、日宋貿易の拠点としていた太宰府で再起を図っていた。屋島では阿波水軍と結び、十万の大軍を福原に再結集させるまでに勢力を回復していた。福原は

背後を峻険しゅんけんな山に守られ、前面は海、水軍を擁して海戦を得意とする平家にとって鉄壁の要塞である。

主力三万騎を擁する範頼が正面の浜から攻撃を仕掛けると、義経の方は山を大きく迂回うかいして鵯越ひよどりごえと呼ばれる急峻な崖を降って背後から襲い掛かった。不意を突かれた平家の一族はうのていで四国の屋島やしまへと逃げ帰った。(一の谷の戦い)


  ・・・・・ 実はこの時、平家は清盛の三年目の法要の最中であった。そこに

  四宮から源氏との和平を問う使者が送られてきたのじゃ。平家側は安徳天皇と

  「三種の神器」という取って置きのカードを握っておったでな、四宮は何とか

  これを取り戻したいと策を練っていたに違いない。

  そんなこんなで平家は武装を解いておったのだが、源氏の方は、そんなことは

  お構い無しにに攻め込んできた。寡兵かへいであった源氏が大軍を擁する平家を倒せ

  たのは、このような偶然が味方したからでもあろうよ。

  鵯越に立った義経はこの断崖を鹿が降りると聞いて、同じ四つ足ならば馬でも

  できるはずと先頭切って崖を駆け降ったのだと。戦の天才などど呼ばれておる

  がな、無体な男のやることは予測がつかぬということじゃ。


平経盛(清盛の弟)の末子に『敦盛あつもり』という若者がいた。一ノ谷の戦いに敗れて

海に向かって敗走していた時、源氏軍の熊谷直実という武将に追いつかれてしまう。

「背を見せて逃げるとは卑怯なり」

この言葉を受けて敦盛は馬を返した。しかし直実は名うての強者つわもの、敦盛はかなうべくもなく組み伏せられてしまう。

「私の首を取り手柄にせよ」、若者は潔く力を抜いて目を閉じた。

直実は躊躇ちゅうちょした。敦盛は数え十六歳、見れば我が子と同じ年端の少年である。

しかし源氏の追討部隊が迫っており、もはや見逃すことなどできようはずもない。

直実は「ならば、せめて自分の手で」と、涙を呑んで敦盛の首を刎ねた。

「嗚呼、武家にさえ生まれてこなければ・・・」

源平合戦の後、熊谷直実は武士に嫌気が差して人知れず出家したという。

                            (幸若舞『敦盛』)

                                 

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