(一)鞍馬の天狗

源義経の幼名は牛若、九郎の通称から明らかなように源義朝の九男に当たる。母は

常磐ときわ御前、近衛天皇の中宮である九条院呈子ていし雑仕女ぞうしめ(宮中の下級女官)であった。当時、鳥羽院の許で出世を遂げていた義朝が見初めて側室に迎えていた。


  ・・・・・ 常盤と言えば「義朝が千人の女の中から百人の美女を選び、その中

  から更に十人に絞って、十人の中で最も聡明で美しい一人を選りすぐった」と

  言われたほどの女じゃった。当時、近衛に入内していた呈子と多子が、帝の気を

  引こうと張り合って美女たちを集めておったのだがな、常磐はその中でも特筆の

  存在であったと聞いておる。


平治の乱に敗れた義朝は平家に討たれた。老いた母を捕らえられた常磐は、三人の幼子おさなごを伴って清盛のもとに出頭する。

「私の身はどのようになろうとも構いませぬ。この子らの命ばかりはお助け下さい」

幼い三人は出家を前提に助命され、常磐は清盛のものとなる。長兄の今若は醍醐寺だいごじへ、次兄の乙若は園城寺おんじょうじへ預けられた。


  ・・・・・ 乙若は出家して義円となり、以仁王が挙兵した時には園城寺の

  長吏ちょうり・八条宮の坊官になっていたという話をしたであろう。その後、令旨を

  伝達した行家と行動を共にしてな、墨俣すのまたの戦いで平家軍の前に討ち死にして

  しもうたのじゃ。

  行家は頼朝が挙兵するとその麾下きかには入らず尾張に進出、墨俣川東岸に陣を

  敷いて平重衡の軍勢と対峙した。行家は夜中に奇襲を企てるも渡河を見破ら

  れてな、義円をはじめ、源重光、賴元、頼康といった源氏一門が大勢討ち死

  にしてしもうた。行家と義円が先陣を争った結果などとも言われておってな、

  どっちもどっちだったのかもしれんな。

  行家は敗走、頼朝に接近を図るも相手にされず、それで義仲の元へ身を寄せ

  ておったというわけじゃ。


清盛が九条院呈子の権大夫ごんのだいぶに任命された。呈子の計らいにより常磐は清盛から解放され、後白河院の近臣・一条長成ながなり再嫁さいかする。

当時二歳と幼なかった牛若は、しばらくは母のもとで育てられ、十一歳になって鞍馬寺に預けられた。


  ・・・・・ 鞍馬寺は都に近い。しかも古くから源氏との繋がりが深くてな、

  源氏の残党が入れ代わり立ち代わり訪れては牛若を鍛え上げたそうじゃ。源氏を

  応援する者は、彼らのことを『鞍馬の天狗』と称して周囲を欺いておった。

  寺では『遮那王しゃなおう』と呼ばれた牛若だったが、父が平家によって殺されたと知ると

  打倒平家の志を抱いて武芸に傾倒していった。しかし、この様子を平家に知られ

  ては困るわな。鞍馬寺は強引に遮那王を出家させようとしたのじゃ。


十六歳になった遮那王は、僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔しゅっぽんする。奥州藤原氏宗主で鎮守府ちんじゅふ将軍であった藤原秀衡ひでひらを頼って平泉を目指した。奥州に向かう途中、遮那王は自ら元服して『義経』と名乗る。

平泉には藤原三代、百年近くに亘って都市的な様相を持った貴族社会が構成されていた。義経は二十二歳までの六年間、この地で養われることとなる。


  ・・・・・ 秀衡のしゅうとは藤原基成、母が再嫁した一条長成の親戚筋に当たる。

  常磐は夫の長成から基成を通じて秀衡に遮那王の保護を打診した。秀衡にすれ

  ば平家に対抗し得る源氏の御曹司を手元に置くことができるでな、二つ返事で

  この話を受け入れたのじゃ。

  天狗の一味に頼政殿の縁者で深栖ふかす頼重という者がおった。深栖とは摂津源氏の

  流れを汲む一族でな、下総を本拠としておったので遮那王の逃亡を助けるよう

  に命じられたのだ。平家が遮那王の出奔しゅっぽんを知れば、全国に手配を布くであろう

  ことは想像に難くないからの。

  遮那王は下総に下る頼重の一行に紛れ込んだ。そして下総からは「金売り吉次」

  の一団に身を隠して秀衡の待つ奥州へと急いだ。吉次とは奥州で産出された金を

  京で売る商人でな、京に上ると必ず鞍馬寺に参拝していたので頼重とは顔なじみ

  であったらしい。

  奥州に向かう途中で元服したのはな、追われている自分が平泉で元服したのでは

  秀衡に迷惑が掛かると考えたからだそうじゃ。秀衡はその細かな気配りに深く

  感銘を受け、殊更に義経を厚遇したと聞いておる。

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