(四)義経無念
京では、叔父の行家が義経の許に身を寄せていた。頼朝は梶原景時の嫡男・
・・・・・ 行家は以前、鎌倉では頼朝に所領をねだるも拒否され、同じく甥の
義仲の
京を離れておった。口先だけは達者な男でな、四宮には気に入られていたよう
じゃ。義仲が討たれると再び京に呼び戻されていたと言う。
行家は頼朝や義仲の叔父として、諸国源氏のまとめ役を自負しておった。
しかし叔父とは言うても為義の十男じゃで、頼朝とは五つほどしか違わんわな。
末っ子気質しか持たぬ行家など、源氏の嫡男たる頼朝にとって
でもなかったということじゃ。
鎌倉に戻った景季の報告を受けた頼朝は、義経が行家を通じて朝廷と繫がっていると断じる。義経暗殺を謀って家人・
これに対し頼朝は、自ら出陣して駿河国黄瀬川まで軍を進める。後白河法皇は京が
戦場になることを避けるため、義経には九州へ、行家には四国への遠征を命じた。
・・・・・ 弟の討伐に頼朝自らが出陣、これは頼朝の怒りを周囲に見せつける
絶大な効果があった。対する義経も兵を挙げたのだが、味方する武士は集まらな
んだ。義経は己のために戦っておるだけで、頼朝が掲げる「東国の独立」のよう
な大義も無かったのでな。
義経は兵力の増強を目指し九州に向けて船出したのだが、暴風のために難破して
摂津に押し戻されてしもうた。運に見放された時とはこんなもんじゃろう。
頼朝の怒りの激しさに、後白河法皇は一転、義経追討の院宣を出した。義経一行は
吉野や南都に潜伏するも、頼朝の
京に見捨てられた義経は、藤原秀衡の庇護を求めて奥州へと逃れて行く。
・・・・・ 頼朝は「京が義経に味方するならば大軍を送る」と
四宮としては義経追討の院宣を出さざるを得なかったのであろうな。しばらく
は比叡山や南都興福寺などと連携して義経を匿っていたのだが、それも長くは
続かなんだ。
義経に平泉に向かうよう勧めたのは四宮だったのではなかろうか。
一一八七年、藤原秀衡が急死した。
翌年、義経の平泉潜伏が発覚すると頼朝は、奥州藤原氏に対して義経追討の宣旨を
下すよう朝廷に奏上する。
秀衡は国衡・泰衡・忠衡の三兄弟に「義経を将軍に立てて奥州の独立を守れ」との
遺言を残していた。しかし家督を継いだ泰衡は宣旨に従い、父の遺言を破って
文治五年(一一八九)、泰衡の兵に館を囲まれた義経は、戦うことをせず自害して
果てたという。享年三十一。
・・・・・ 奥州藤原氏は東国の豪族をはるかに上回る武力と財力を有しておっ
た。頼朝にとっては、まさに背後に潜む虎というわけじゃ。敵対する気配こそ見
せてはおらんかったものの、これが義経を受け入れたとなれば話は変わるであろ
うが。
秀衡は頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒していたのでな、名門の血筋を立てて
鎌倉に対抗しようと考えておった。しかし秀衡の急死を受けて跡を継いだ泰衡
は、まだ十分に義経との信頼関係を築けてはおらなんだ。
義経は平家との戦において目覚ましい働きをした。一の谷の
で駆け降り、壇ノ浦では弓矢で船頭や水夫を射るなどして勝利を引き寄せた。
しかし、それは目先の敵を打ち倒すだけの奇策でしかなかったのじゃ。
生い立ちのせいもあろうな。幼きころは鞍馬の山中で天狗を相手に武芸に励み、
寺を出た後は裏街道を歩いてやっとの思いで奥州まで辿り着いたと言うからの。
義経に源氏の大将としての器量を求めるなど所詮は無理な話であろうよ。
片や頼朝は、元服するまで源氏の嫡男として都で高度な教育を施されておった。
伊豆に流された後も比企尼の援助で書物なども届けられてな、旧友が尋ねてきて
は都の情勢や政治のあり方などを語り合っていたと言う。頭でっかちではあった
が、理性が情に勝る冷静沈着な理想主義者に成長していたのじゃ。
義経が当初より偉大な兄・頼朝に敬愛の念を抱いておったのは間違いない。
しかし奴の悲劇は、頼朝が武者の世として描いていた理想の姿を理解することが
できなんだ、それに尽きると言えようの。
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