(四)鎌倉入り

以仁王の令旨を手にして各地の源氏は兵を挙げる時期を伺っていた。頼朝の挙兵を聞いた木曾義仲ら信濃源氏、武田信義ら甲斐源氏なども起ち上がる。東国反乱の報告を受けた清盛は、平維盛率いる追討軍を派遣した。

頼朝はこれを迎え撃つべく鎌倉を発し駿河へと向かった。富士川では甲斐源氏の軍勢が参陣する。そこには石橋山で頼朝と離散し、援軍を求めて甲斐に逃れていた北条時政・義時父子も行動を共にしていた。

両軍は合流すると富士川を挟んで平家軍と対峙たいじする。


  ・・・・・ 維盛の兵四千に対して、源氏の連合軍は四万にも膨れあがっておっ

  た。まさか源氏の軍勢がこれほどまでとは、清盛も予想だにしていなかったよう

  じゃ。

  決戦前夜、平家の中から数百の兵が秘かに川を渡って投降してきた。これに驚い

  た水鳥が羽音を立てて飛び立ってな、すると源氏が攻めてきたと勘違いした平家

  軍は戦わずして這々ほうほうていで逃げ出したんじゃと。


頼朝はこの勢いに乗って、長年の悲願であった京へ進軍するつもりでいた。しかし

上総広常、千葉常胤、三浦義澄ら重臣が「京への進出は時期尚早」と諫言する。

関東には常陸の佐竹氏を始め、上野の新田氏など未だ頼朝に従わない勢力が残って

いた。頼朝は武田信義を駿河国、安田義定を遠江とおとうみ国の守護に任ずると、鎌倉に軍を引いて東国の平定に乗り出した。


  ・・・・・ 頼朝を支えた者のほとんどは坂東平氏の流れを汲んでおったから

  な、東国の独立こそが本丸であって平家征討などは二の次であった。

  東国で従わぬ者は、皮肉なことに源氏ばかりじゃ。頼朝は早速にも佐竹を討伐し

  て、没収した領地を勲功に応じて分け与えた。これまで所領の安堵あんどや給付は朝廷

  の専権であったのだが、東国において頼朝がこれを行ったことで坂東の豪族たち

  は頼朝に従うようになったのだ。

  東国とはな、京から見ると都の防衛線となる『三関さんげん』、即ち愛発あらち(北陸道)、

  不破(東山道)、鈴鹿(東海道)の三つの関の向こう側を指す。一方、東国の

  独立を目指す坂東武者にすれば『箱根の坂』の東側を言うのじゃ。駿河から尾張

  にかけては中間地帯なのでな、駿河を武田信義、遠江とおとうみを安田義定に託すことで

  良しとした。一応は源氏の一族であったのでな。


鎌倉に戻った頼朝は早速にも由比郷にあった鶴岡若宮を小林郷の小高い丘に遷し、『鶴岡八幡宮』として武者の都の中心に据えた。その東隣、六浦道に面する大蔵郷に御所を開くと、和田義盛を『侍所』の別当に任じる。侍所とは軍事と警察を担う役所のこと、これにより頼朝は東国武士を統率する体制を構築した。


  ・・・・・ 話は少し戻るが、下総では命の恩人、あの鎌倉党の梶原景時が頼朝

  に従うことを決意して尋ねてきておった。景時は和歌もたしなむ文武両道の切れ者

  でな、頼朝は大層喜んで早速にも側近の一人に加えたのじゃ。

  昔、源頼義が源氏の氏神である石清水八幡宮を鎌倉の由比ヶ浜に勧請かんじょうしたのだ

  が、平家との戦の前にその若宮を詣でるよう勧めたのも景時であった。

  鎌倉における父祖伝来の地は狭隘きょうあいな山中にある亀ヶ谷かめがやつ。しかし北と東西が峻険

  な山々に囲まれ南には海が広がる鶴ヶ岡の地勢を見て、まるで城郭のようだと

  喜んでこの地に都を開くことを決めたのじゃ。これも全て景時の計算通りであっ

  たろうな。

  以後、頼朝は殊更に景時を重用した。しかし、事情を知らぬ北条や三浦の者に

  とっては面白くなかったであろうがの。


下総では異母弟の全成ぜんじょうが、頼朝の挙兵を聞いて京から駆け付けていた。

また、藤原秀衡ひでひらの許を頼っていた義経も奥州おうしゅうから馳せ参じ、黄瀬川の宿所にて

二人は対面を果たしている。


  ・・・・・ 全成とはあの常磐が産んだ今若のことじゃ。義経は同じく牛若の

  こと、腹違いとは言え頼朝にとっては心強い身内が加わって大層喜んでおった

  わい。

  弟と言えば他にも範頼がおったが、目立たん男でな、いつ何処からやって来た

  のだったかなぁ。範頼も異母弟に当たるのだが、頼朝からの信頼は殊のほか

  厚かった。母の身分が低かったので、常日頃より言動をわきまえておったでな。

  しかし、戦ではあまり良いところが無かったようじゃがの。


  新田にった足利あしかがについても、少し語っておかねばなるまいな。両家は共に八幡太郎

  義家の四男・義国の子孫なのだ。義国の領地は下野しもつけ国足利でな、上野こうずけむすめ

  の間に長男・義重を、信濃の女との間に次男・義康をもうけておった。

  義国の寵愛が義康にあると知った義重は弟に宗家を譲り、母方である上野国

  新田の家を継いで「新田太郎」を名乗るようになる。これにより足利家は義康

  が継ぐこととなった。新田の紋は丸に一本線の「一引ひとつひき」、足利の紋は「二引ふたつひき

  即ち長男と次男を表わしておる。これを見ても、この頃は両家の仲が良かった

  ことが伺えるであろう。

  ところが頼朝が挙兵した時、新田は長男の気位きぐらいが邪魔をしてか兵を動かさなん

  だ。それで先々冷遇されることになってしもうたのだ。一方の足利義康は頼朝の

  縁者を妻としてな、その子・義兼は北条政子の妹をめとるなど、鎌倉に恭順する

  姿勢を示して勢力を確かなものとしていったのじゃ。

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