第六章  源頼政

一一〇四年、源頼光の系統である摂津源氏・仲政の長男として生を受ける。摂津国

渡辺(大阪市中央区)を基盤とし、京の滝口武者の一族である嵯峨源氏・渡辺氏を

郎党にして大内守護(内裏の近衛兵)の任に就いていた。

一一三六年、頼政は家督を譲られると従五位下に叙される。鳥羽院に仕え、寵妃の

美福門院や院近臣の藤原家成などと繋がりを深くした。


  ・・・・・ 頼政殿は大江山の鬼退治で知られる源頼光の子孫でな、こちらも

  御所に出没するぬえを退治したことで名をせた。鵺とは「頭は猿、胴体は狸、

  虎の手足を持ち、尾はくちなは」という怪鳥だそうな。

  頼光と同じく頼政殿もまた、武勇のみならず優れた歌人としても世に知られて

  おったのじゃ。


平治元年(一一五九)、後白河院の近臣・藤原信頼が源義朝と謀り、平清盛が熊野

参詣中という軍事的空白を突いて兵を挙げた。しかしこの戦いで源氏は平家に敗れ、頼朝は捉えられて伊豆に配流とされる。

この時、源頼政は平家側に付いて勝利に貢献した。その後も頼政は、平家の政権下で中央政界に留まり、大内守護として嫡男の仲綱と共に二条天皇・六条天皇・高倉天皇の三代に仕えていた。


  ・・・・・ 美福門院に仕えていた頼政殿は六波羅で二条天皇をまもっておった。

  しかし義平から攻撃を受けたので、仕方なく源氏軍と闘うはめになってしもうた

  のじゃ。頼政殿は摂津源氏、同じ源氏の一族ではあったが東国に拠点を置く義朝

  ら河内源氏との親交は深くなかったのでな。

  この年、頼政殿は五十七歳。三年後には正五位下に任じられてな、遅まきながら

  初めて昇殿を許されるまでになった。清盛は実直な頼政殿を信頼し、頼朝を頼政

  殿の所領・伊豆に配流して監視させたのじゃ。源氏の一族である頼政殿を介して

  東国を掌握しようと考えたのであろうよ。


二条天皇が亡くなると清盛の専横は激しさを増し、国中の豪族たちに不満が溜まっていた。

治承元年(一一七七)、後白河法皇の側近であった藤原成親、西光らによる『鹿ヶ谷の陰謀』が発覚し、清盛と法皇の対立が深まっていく。清盛は法皇を鳥羽離宮に幽閉し、高倉天皇から言仁親王(安徳天皇)へ譲位させ外戚がいせき政治を始めるようになる。後白河は近臣の藤原光能に助けを求めた。

治承四年(一一八〇)、後白河の第三皇子・以仁王が源頼政と与して兵を挙げる。

平家追討の令旨を源行家に託して東国に雌伏しふくする源氏の一族に挙兵を促した。


  ・・・・・ 以仁王と頼政殿に平家打倒を働きかけたのは光能に違いない。

  光能と以仁王は姻戚関係にあったのでな。

  以仁王は幼少から英才の誉れ高く皇位継承の有力候補であったのだが、憲仁

  親王(高倉天皇)の生母である平滋子(建春門院)の妨害に遭って皇位継承

  の望みが絶たれていた。

  また、光能は閑院流かんいんりゅう藤原氏の徳大寺公能きんよし猶子ゆうしとなっておったので、歌を

  通じて頼政殿とも親しくなっていたというわけじゃ。

  

しかし挙兵の計画が平家に漏れ、以仁王は三井寺みいでら園城寺おんじょうじ)に逃れる。平家は王の引渡しを要求するが、寺側はこれを退けて以仁王を保護した。

平宗盛が追討の兵を向けると、三井寺だけでは兵が足りないとみた以仁王は興福寺を頼って南都を目指す。頼政は平等院に陣を敷き宇治川を挟んで平家軍を待ち受けた。しかし平家の大軍の前に以仁王と頼政は早々に敗死してしまう。


  ・・・・・ 三井寺の長吏ちょうりは円恵法親王ほっしんのう、後白河の皇子・八条宮のことでな、

  以仁王とは同腹であった。また円恵法親王の坊官を務めていたのが義円、あの

  常磐の産んだ乙若じゃ。頼政殿と通じて以仁王を三井寺に受け容れた。

  三井寺は比叡山と並ぶ天台宗の総本山なのだが、平家に近い延暦寺には昔から

  いじめられておったからな。

  頼政殿の計画では、三井寺や南都・興福寺の僧兵を頼って四宮を救い出し、

  平家打倒の後には以仁王を掲げて源氏の政権を打立てるというものであった。

  これが早々と平家側に漏れたのはな、あの行家のせいなのじゃ。彼奴あやつは東国に

  向かう途中、行く先々で令旨をひけらかしてはチヤホヤされて喜んでおった。

  これでは計画が露見するのも当たり前であろうが。

  しかし頼政殿ともあろう御方が、何でこんな男に大事な書状を託したのであろ

  うかの。


この時、八条院と姻戚関係にあった平頼盛が、女院の養子となっていた以仁王の第一王子を円恵法親王に預けた。三井寺は後に平家の焼討ちに遭うが、一宮は北陸に逃れて後に『北陸宮』を称するようになる。


  ・・・・・ 頼政殿について、もう少し話しておかねばなるまいな。

  鹿ヶ谷の事件の後、七十四歳にして念願の従三位に昇叙したのだが、この昇進は

  相当に破格の扱いであった。清盛が頼政殿の長年の功績に報いて奏請したもので

  な、頼政殿も清盛には心から感謝しておった。

  頼政殿は清盛とは良い関係を保っていた。しかし、後を継いだ宗盛らは源氏の

  一門をないがしろにすることが目立つようになってきた。既に出家して家督を嫡男の

  仲綱に譲っていたのだが、いつしか没落した源氏を代表する立場となっておった

  のでな、せがれたち、或いは源氏の行く末を案じて乾坤一擲けんこんいってき、文字通り老骨にむち

  打っての大勝負に出たのじゃろうて。

  挙兵した時、頼政殿は御年おんとし七十七になっておった。本来であれば喜寿きじゅを祝って

  平穏な老後を楽しんでいたはずなのにな。先祖の頼光は摂津源氏・満仲の嫡男、

  摂津源氏こそが清和源氏の嫡流だという矜持きょうじもあったのじゃろう。平家の風下

  に甘んじてきた自らの人生を清算しようと考えたのかもしれんな。

  源平の合戦は頼朝の挙兵から始まったように伝えられておるがな、伊豆に流され

  ていた罪人に全国の源氏や関東の豪族が一斉に呼応などするわけがなかろう。

  源氏の挙兵は、まさに頼政殿こそが立役者たてやくしゃだったのじゃ。歴史に名を残すこと

  ができなかったのが残念でならぬわい。

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