(三)挙兵

治承元年(一一七七)、後白河の近臣による『鹿ヶ谷ししがたにの陰謀』が発覚し、清盛は法皇を鳥羽離宮に幽閉する。

治承四年(一一八〇)、院を救出しようと後白河の第三皇子・以仁王が全国の源氏に向けて平家追討の令旨りょうじを発し、源頼政と共に兵を挙げた。しかし平家の素早い追討を受け、王と頼政は早々に敗死してしまう。


  ・・・・・ 令旨が全国各地の源氏に行き渡った時、まだ以仁王と源頼政が敗死

  したという情報は届いてはおらんかった。しかも令旨には「平家を討った暁には

  東国の独立を認める」という、関東の武士の念願が約束された一文も含まれて

  いたそうじゃ。


令旨に目を通した清盛は、先手を打って国中に源氏討伐の命令を発した。平家の軍勢が伊豆に迫ってくる。かくなる上は頼朝としても起ち上がるしかない。

京の勤めを終えた三浦義澄、千葉胤頼たねよりらが領国に戻る途中で北条館に立ち寄った。義澄は相模の豪族・三浦義明の次男、胤頼は下総の千葉常胤の六男、頼朝は彼らに

挙兵の意志を伝えて参陣を要請する。

頼朝三十四歳、伊豆に流されて実に二十年の歳月が過ぎていた。


  ・・・・・ 宗時に限らず、三浦や千葉の者たちも平家の世が続くことを望んで 

  はおらんかった。

  頼朝の芸の細かいところはな、一人ずつ呼んでは相手の手を取って協力を求めた

  ことじゃ。そりゃ頼まれた方は、「自分だけを頼りにしてこのような大事を打ち

  明けてくれたのか」と感激するわな。皆が頼朝を担いで平家と戦うことを決意

  した、というのもうなずける話であろう。


その年の夏、北条時政らが韮山にらやまに在る伊豆国目代・山木兼隆を襲撃してこれを討ち取った。三嶋天神の祭の夜、館の警護が手薄になった隙を突いての奇襲である。

伊豆脱出を目指す頼朝の正面には平家方・大庭景親の二千余騎が待ち受けていた。

頼朝は石橋山に陣を敷くが、後方からは伊東祐親の大軍が迫ってくる。

頼朝は源氏譜代ふだいの家人であった三浦氏を頼り、父・義朝が庇護を受けた上総を目指す

つもりでいた。しかし天候が荒れて三浦軍の合流が遅れてしまう。頼朝は惨敗を喫して僅かな従者と共に山中へ逃げ込んだ。

この時、大庭軍に属していた梶原景時が頼朝一行を真鶴まなづる岬まで誘導し、漁船で三浦半島へ脱出させることに成功する。


  ・・・・・ 大庭景親は平治の乱では源氏に付いて闘うも、許されて平家の恩を

  受けておった。代官として駿河国府を与えられていたのでな、清盛の命に従って

  頼朝の前に立ちふさがったのだ。

  梶原景時は大庭軍として頼朝の捜索に加わっていたのだが、山中に逃げ込んでい

  た頼朝と遭遇した時、その姿を前にして雷に打たれたような衝撃を受けたのだ

  と。景時は鎌倉党の後裔こうえいとして、ここで頼朝を死なせるわけにはいかんと心に

  決めたそうじゃ。

  鎌倉党とは桓武平氏・良文の流れを汲む一族でな、後三年の役で勇名をせた

  平景正は八幡太郎義家の郎党となり鎌倉の地を切り開いて鎌倉権五郎ごんごろうを名乗って

  おった。以後、三代に亘って源氏の家人であったが、平治の乱で源氏が敗れた後

  は大庭の傘下に加わって生き延びていた。

  頭の切れる男でな、漁港のある真鶴岬を目指すよう頼朝に進言したのじゃ。大庭

  の兵が現れると「この辺りは儂が調べたが猫の子一匹見当たらぬ」と言って追い

  払ってくれたのだと。大庭の重臣である景時にそう言われれば大人しく引き下が

  るしかないわな。

  こうして探索の目を反らつつ頼朝らを真鶴まで誘導し、漁師たちも協力して頼朝

  一行を三崎の湊まで送り届けた。


  地図を頭に思い浮かべてみるがいい。陸路で伊豆から相模、武蔵、下総を経由

  して上総まで達するには相当な時間と労力を要するであろう。しかし、船で伊豆

  半島から三浦半島、房総半島へと渡れば意外と容易いとは思わぬか。

  頼朝としても配流先から逃げるだけでは将来の展望は開けぬわな。令旨に応じて

  平家と一戦を交えた、という爪痕を残さねばならんかった。この難局を切り抜け

  て上総に辿り着けるかが勝負の分かれ目であったと言えようの。

  しかし、この戦で北条氏の後嗣・宗時が討ち死にしてしもうた。頼朝が最も頼り

  にしていた男であったに、返す返すも残念なことであった。以後は次男の小四郎  

  義時が頼朝の家子いえことして近くにはべることになったのじゃ。


頼朝一行は三浦の館まで辿り着き、ようやく三浦義澄・義村親子、和田義盛ら相模勢と合流を果たした。しかし畠山重忠・河越重頼ら追討軍が押し寄せて来る。三浦一族の長・義明は衣笠城に籠もってこれを迎え撃ち、頼朝らは水軍を擁する怒田ぬた城の舟倉から船を仕立てて房総半島を目指した。


  ・・・・・ 三浦義明はな、米寿を祝ったばかりであった。老齢であるおのれ

  足手纏あしでまといになってはとの思いから城に残り、盾となって追討軍の前に立ちはだ

  かったのじゃ。

  頼朝や息子・義澄らの出航をしかと見届けて討死をしたのだが、坂東武者とは

  まさに義明のようなおとこのことを言うのであろうなぁ。


安房に上陸した頼朝は直ちに上総広常と下総の千葉常胤に遣いを送った。常胤から

参陣するとの返答があり、頼朝は上総を素通りして下総へと進む。下総国府で千葉

一族が合流、それを見た上総広常が二万の兵を率いて押っ取り刀で参陣してきた。


  ・・・・・ この頃、上総介を世襲していた広常は清盛から送り込まれた国司と

  既に対立しておった。しかし上総氏は昔、父の義朝を養育した立場だったので

  な、頼朝の傘下に入るべきかどうか決めかねていたようじゃ。

  上総広常二万の参陣、それは何よりも嬉しかったことであろうよ。しかし頼朝は

  おもねることなく、りんとした態度で広常の遅参をとがめたのだと。源氏の棟梁として

  の器を見せつけられた広常は、頼朝の配下に加わることを決めたという。


挙兵から二ヶ月、頼朝は三万を超える大軍とともに、かつて父・義朝や兄・義平ゆかりの地である鎌倉に入った。

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