第3話

「有名な登山家が何故山に登るんですかって訊かれて『そこに山があるから』って答えた話があるじゃないですか」

「ああ、名言だな」

「あれ意味わかんないなって思ってたんですよね。私ならそこに山があったら山菜取りに行きますもん」

 桜沢は今日もイーゼルを置かないまま窓際の椅子に座って言った。俺はパレットに橙の絵の具を絞りながら「何の話だよ」と返す。

「俺はお前が筆を折った理由を訊いたつもりだったが」

「その話をしてるんですよ」

「山菜採り名人になりたくなったのか?」

「貴重な青春を山菜に懸けるなんて私にはできません」

 夕焼けの逆光の中で薄く笑う彼女は、何に青春を懸けているのだろう。そんなことを思いながら筆を水に泳がせる。

 俺の思いなんて露程も知らない後輩は「そうじゃなくてですね」と話を戻した。

「もしそこに山があったら、できることって実はいっぱいあるんですよ。野鳥を観察するとか、トンネルを掘るとか」

「山菜を採るとか」

「そうですそうです。でもその彼は山を見て『登ろう』って思った。色んな選択肢がある中で、それしか思いつかなかった」

 彼女はそこで一度言葉を切って「そんなの」と繋げ直す。


「そんなの、大好きってことじゃないですか」


 その声色には何故か少し切なさが混じっていて、俺は持ち上げた筆を空中で止めた。

 キャンバスから目を逸らして、窓の方を向く。

「……なんか色々うまくいかなくなってきたんですよね」

 彼女は見上げた空にぼやくように言った。

「最初は絵を描くのが楽しくて、それだけで良かったんです。でも試しに出してみた展示会やコンクールでは見向きもされなかったり、最初は褒めてくれてた先生にも少し厳しいことを言われたり、友達から『いつも何してるの?』って訊かれても胸張って答えられなかったり、学年が上がって勉強も忙しくなったりで……なんか、ちがうなって」

 彼女は自嘲気味に薄く笑う。

 それから「もし」と椅子を鳴らした。

「もしそこに白紙のノートがあったら、先輩はいの一番に『絵を描こう』って考えるんでしょう。別に小説を書いたって、ページを破って紙飛行機を作ったっていいのに」

 そうか、と俺は悟る。

「羨ましいですよ。心底羨ましい。登山家の彼も、先輩も。そんなに一途になれるものに出会えるって本当に幸せですからね。私には、わかります」

 今の彼女は何も懸けていないから、こんな顔をしてるのか。

「私には他の選択肢が見えるようになってしまった」

 そう言って彼女は目を細める。

 笑っているようにも、泣いているようにも見えた。

「それが、私が筆を折った理由です」

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