第2話
「魚が歌えば、猫は踊ると思いますか?」
静かな広場に声が響く。その場所は公園と呼ぶには遊具もなく、空き地と呼ぶには整っていた。
そこに唯一あったのは、大小様々な青いタイルが貼り付けられた大きな壁。誰が置いたのか、前の建物の名残か、誰も知らなくても壁はいつもそこに立っていた。
そんな壁しかない広場はいつも人気がなく、俺はそこで空のスケッチをするのが好きだった。
「喰われると思う」
「私もそう思います」
そんな俺の行きつけに先客が現れたのは、高校二年生になったばかりの頃。
つやつやの新しい制服に身を包んだ女子生徒は壁に背を預けながら言った。
「世の中なんてそういうものなんですよ。どれだけ魚が素敵な声で歌ったとしても、猫から見ればご馳走から音楽が流れてるだけ。むしろ猫にとっては見つけやすくて嬉しいでしょうね。綺麗に食べられておしまいです」
「世知辛いな」
「激辛ですよ。ものの価値なんて見る人次第なんですもん」
「一理あるな。で、キミは誰?」
世の中を憂う彼女に、俺は改めて基本的なことを尋ねた。
そうでした、と彼女はくすりと笑う。
「わたし
「不思議な言葉を使うね」
「変なやつって聞こえますよ?」
先輩のほうが変わってるじゃないですか、と彼女は言う。
「毎日こんなところで一人で絵を描いて、日が暮れて手元が見えなくなったら家に帰る」
「見てたみたいに言うね」
「見てましたから。私の家そこです」
桜沢は背面の青い壁の上を指差す。
壁の向こう側には緑の屋根の家が見えた。二階の窓からならこの広場の様子も窺えそうだ。
「別に変わってるわけじゃない。部活動だ」
「変わった部室ですね」
「ほんとは美術室だけどな。まあでもちゃんと美術部やってるの俺だけだし、俺のいる場所が部室になるかもね」
うちの高校は野球と吹奏楽の名門校だ。そのため入学してくる生徒のほとんどはそのどちらかに所属する。
しかし稀にどちらも興味のない生徒がいる。家が近いから、などという理由で入学した彼らは部活動全員参加の校則の下、比較的楽そうな部活に入部するのだ。
美術部はその筆頭だった。傍から見れば『なんとなく絵を描いてればいい部活』という感じなのだろう。そんな彼らが真面目に部活動に励むはずがなかった。
「一人って寂しくないんですか?」
「寂しくないよ。絵を描いてるんだから」
「先輩は本当に絵を描くのが好きなんですね」
「まあな。だって芸術ってすごいだろ」
「すごいって何ですか」
薄く笑う彼女に俺は鞄の中のスケッチブックを開いて見せた。
鉛筆で描かれた、昨日この場所から見上げた空がそこにはある。
「俺はこの空を何色にもできる。鯨を泳がせたり、ニワトリを飛ばせたりもできる。太陽と月を並べられるし、六角形の虹を架けることもできる」
「そりゃそうですよ。作り物なんだから」
「そうだな。でもその作り物にはすごい力があるかもしれない」
「たとえば?」
首を傾げる彼女に、俺は少し考えて口を開いた。
「――たとえば、もし俺が魚なら」
言葉にしながら思う。
きっと、これは俺自身も信じていたいことだ。
「猫が思わず踊っちゃうような歌だって歌えるかもしれないんだよ」
俺はスケッチブックを閉じた。それをもう一度鞄にしまって顔を上げる。
壁から背を離した彼女はとても楽しそうに笑っていた。
「……先輩は変わってますね」
「君ほどじゃないけども」
俺がそう言うと「あはは」と彼女の笑い声が夕空に響く。
「良い歌が聞こえてきましたよ、先輩」
そして、次の日の放課後。
「踊りに来ました」と美術部に入部してきた彼女を見て「ダンス部に行けよ」と俺は小さくため息をついた。
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