歌う魚と踊る猫

池田春哉

第1話

「ねぇ先輩、覚えてます? あの『青い壁』」

「ああ、あの広場の」

 開けられた窓際に置いた椅子に座ってこちらを見る桜沢は「そうですそうです。あの何もない広場の」と長い髪を揺らす。美術室の古い椅子がぎし、と呻いた。

「あの壁、取り壊されるらしいですよ。マンションが建つんですって」

「新築予定物件でパチンコ屋の次にマンションってつまんないよな」

「じゃあ何が建ったら嬉しいんですか」

「フルーツサンド屋とか」

「すっごいかわいいの出してきますね」

 紫の絵具チューブの蓋を開けて絞り出す。色の塊が柔らかくパレットに張り付き、水を含ませた平筆でそれを掬った。

「おいしいだろフルーツサンド。いろんな色あって綺麗だし」

「うん、なんか先輩っぽいですね」

「なんでだよ」

「カラフルな断面が並ぶ景色とか先輩は好きそうじゃないですか。先輩変わってますもん」

「お前に言われたくない」

 夕風にカーテンが靡いてキャンバスに筆先を置く。そのまま筆を滑らせると、紫の足跡が白を埋めた。


「実は私、筆を折ろうと思ってるんですよ」


 唐突な言葉に、俺はキャンバスから平筆を離して、今日一度も筆を持っていない彼女を見る。彼女は真っ直ぐこちらを向いていた。

「美術部辞めるのか」

「部じゃなくて、術を」

「なんでまた」

「大した理由なんてないですよ。言うなれば潮時ってやつですかね。ほら、ちょうど青い壁も壊されますし」

 桜沢は乾いた笑顔でそんなことを言って、ぎし、ともう一度椅子を鳴らす。

 壁と筆に何の関係があるのか分からないが、きっと何の関係がなくとも彼女はそれを理由にしたに違いなかった。何かを辞める理由にならないものなんて多分この世にない。

 だから俺がそれを止めるというのも無理な話なのだろう。

「そうか。次に建てるならマンションとパチンコ屋以外にしてくれよ」

「先輩のために最高の食パン用意しておきますね」

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