第13話 ディナの誘い
先生は眼鏡をかけて、持ってきたタオルでサイドテーブルから床にこぼれたコーヒーを拭った。幸い彼女の白衣とベッドシーツは汚れていない。
「乱視がひどくて、眼鏡をかけていないと時々こういうミスをしてしまうの。」
彼女は未だにバツが悪そうにそう言った。
あまり気にしないでください、というと彼女は少し微笑んだ。その視線が赤いフレームの外側を通ることは無かった。
「私が運び込まれた時のお話が途中でした。続きを聞かせて貰えますか。」
ええ、そうね。と彼女は言って、新しく淹れ直したコーヒーに口をつけてから、再び語り始めた。
「あなたが目覚めるまでの間、救急隊員から当時の状況を詳しく教えてもらった。救急の電話を掛けたのは、あなたのお父様だそうよ。たしか、」
「ルーカス・ハリス」
「そう、ルーカス。それがあなたのお父様の名前。
けれど隊員が現場のカフェに到着した時には、あなたのお父様の姿は無かった。店員の話では、あなたの介抱をウェイタに任せて、別の男と車に乗って立ち去ってしまったそうよ。その男はウェイタにかなり多めのチップを渡したそうだけど。
それから、あなたが倒れていた傍のテーブルにはヒビが入っていて、あなたが倒れた拍子に、できたんじゃないかって話だった。」
「いいえ、それは違います。」
そのヒビは知っている。父がヘンダーソンにアームレスリングで敗れた時にできたものだ。
「わかっているわ。あなたにはほとんど外傷はなかった。左膝に痣ができているけど、それはおそらく床に倒れるときについたものでしょう。」
全身を診たのですか?と聞くと、
「ええ、もちろん。主治医ですから。」と彼女は笑う。
「それとも、まだ身体は見られたくなかった?」
そもそも、自分がどうして気を失って倒れたのかが分からない。その日は別段体調が悪いわけではなかったし、あの時は父とヘンダーソンがお互いに言い合っていたが、自分には理解できない話だった。それで、思考が追い付けなくなって、二人の声や、視界がぼやけていって—。
考えても、分からないことばかりだった。
ヘンダーソンという男、そして父との関係。どうして父は、息子が倒れた現場を立ち去ったのか。
そうだ、父も腕を痛めていたはずだ。大丈夫だろうか?机にヒビが入るくらいだから、相当な衝撃だったに違いない。
そして、シン。彼女はいったい何者だ。父の指示できたといった。不思議な雰囲気の女性だった。彼女の立ち振る舞いをトレースする。かなり身体を鍛えている人の筋肉の使い方だった。
そして、シンは先生がコーヒーをこぼすことを予見していた。彼女が乱視だと知っていたのか、とすると先生とシンは面識があるのだろうか?
いずれにしても、一人で考えて理解できる領域は既に超えてしまっている。シンに言われた通りの所に向かおう。それ以外に現状を正しく認識する手段は無い。
「先生。食事も頂けて、随分と身体も回復しました。そろそろ家に帰ろうと思います。きっと、父も家で待っているのでしょう。」
少し高めに声をだす。その方が、体調が良いように思ってもらえると考えたからだ。
「もう一日入院できるように手続きは済んでいるわ。もう少し休んでいきなさい。それに、夕食は私も一緒ここで食べようと思っていたのだけれど。」
シンが言った通りだった。
先生は魅力的な提案で、私を引き留める。
「まさか先生からディナに誘っていただけるとは思っていませんでした。」
じっと見つめ合うと、彼女は破顔して声をあげて笑った。
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