第12話 病室にて
「あなたがこの病院に運び込まれてきた時の話をしましょう。」
先生は眼鏡を外したまま、まっすぐに私の眼を見てそう切り出した。
私はベッドに座ったまま、フレームに固定したテーブルに並べられた食事に手を付けようとしたところだった。テーブルには、卵サンドと暖かいミネストローネ、そして先ほど私が飲みかけた二本目のミネラルウォータが置かれている。
ミネストローネを一口飲んで、右手に卵サンドを持ってから、
「お願いします。私は、確認しなくてはならないことがたくさんあります。
ええ、先生にも。それから父にも。」
彼女が再び前髪を掻き揚げ、額が露になる。顎から首筋にかけてのラインは、どこか官能的で、遠くから眺める雪山の稜線を連想させる。
「昨日、あなたのカウンセリングを終えた後、私は仕事を早めに切り上げて帰宅しました。別に予定があったわけではないけれど、なんとなく早く帰りたい気分だったし、そのあとは患者の予約は入っていなかった。それで、私は家に帰って熱いシャワーを浴びた。」
そう言って彼女は、私のテーブルにあったミネラルウォータを持ち上げて一口飲んだ。その間に、彼女の家のシャワーを想像してみる。きっと淡い黄色のタイルが貼られているに違いない。
「シャワーを浴びるとき、眼鏡は外す?」
それが、この日の彼女への最初の質問だった。
「もちろん。今と同じようにね。」
それは、挑戦的な言い方では決してなかった。まるで式典の挨拶の冒頭に語られるつまらない定型文のように彼女は言葉にした。
「それから髪を乾かして、缶ビールを開けた時に、電話が鳴った。出ようかどうか迷ったのは、その缶ビールが帰りのガソリンスタンドで、1ドルで買ったものだったからよ。これが、つまらない男から貰ったムートンだったら、間違いなくすぐに電話に出たでしょうね。
電話の相手は、私の上司で、いつもまくしたてるように話す人なのだけれど、その時はいつも以上に発音が乱れていたわ。それで、君の患者が緊急搬送されて来たと告げたわけ。」
彼女の話し方は、いつも通り事務的な口調だった。それでも節々に感情の鱗片を感じるのはおそらく、真っ直ぐに私の方をみて話すからだろう。
「それから私は仕方なく服を着て、もう一度ここに戻ってきた。
当直医の話では、あなたは失神状態にあったけれど、病院についたころにはすでに脈拍も安定していたし、すぐに目覚めるだろうってことだった。
結果的に、随分と待たされるはめになったわけだけれど。」
そこまで話すと、彼女は少しコーヒーを取ってくると言って席を離れた。
歩き始めた彼女の白衣の裾は、私が眠っている間に見た夢の断片を思い起こさせる。
彼女が部屋を出た後に、もう一度言葉にしてみる。
あなたが好きです。
自分の感情が、この言葉に紐づいているという自覚はあった。
けれどそれは、形が似ているけれど決して正しくはないジクソーパズルのピースを無理やりに組み合わせた時のような、苦い違和感を伴わずにはいられなかった。
卵サンドを一口かじる。
味を認知する前に、扉が不意にノックされる。意識の集中がそちらにそれて、つかのま味が分からない。
扉が開く。彼女だろうか、と思ったが早すぎる気がした。それに先ほど彼女が部屋に入って来た時にはノックはしなかった。
部屋に入ってきたのは、背が高い女性だった。年齢は、私より若くみえる。
ファッションは男性的で、白いシャツに、上下黒色のスーツを着ている。顔つきから、アジア人の血統だろうと思った。
女性は、私の正面までゆっくりと歩くと、小さくお辞儀をした。長く、艶のある黒い髪が頬を包む。
「はじめまして、Mr. ハリス。私は王
透き通った声に、流暢な発音だった。ネイティブだろうか。
咀嚼した卵サンドを飲み込んでから、彼女の名前を反芻する。
「ワン、、シンユー?」
「英語圏の方には少し発音が難しいようです。どうかシンとお呼びください。」
ということは、彼女の第一言語は英語ではないのだろうか。
「シン、失礼ですがあなたは?」
「私はあなたの父、ルーカス・ハリスの指示でここに来ました。」
「父は?私が倒れた時、そばに父がいたはずでは?それに、Mr. ヘンダーソンも。君は、ヘンダーソン氏とも面識があるのですか?」
記憶が幾分鮮明になる。ようやく脳が本格的に起動したようだ。昔から寝起きは悪い。
「その件で、話さなければならないことがあります。それもたくさん。」
そう言って彼女は小さく折りたたまれた紙を寄越した。
「二時間以内にこの病院を出て、この紙に書かれた住所に向かってください。あの女医はあなたを引き留めようとするはずですが、それに乗ってはいけません。」
シンの眼差しが一層強くなる。
「彼女は魅力的ですが、今はいちど優先順位下げてください。それにあなたの運命がかかっています。もちろん、それはルーカスも願っていることです。」
「すいません。昨日から、思考が追い付かないことばかりです。もう少し丁寧に説明いただけませんか?」
「そうしたいのは私も同じですが、
彼女は部屋に入ってすぐにコーヒーをこぼすでしょうが、それは眼鏡をかけていなくて視力が不十分なためです。それでは、後ほど改めてお会いしましょう。」
失礼します、と言ってシンは足早に病室を出ていった。
15秒後に再度、病室の扉が開き先生が入ってきた。私はとっさにシンから受け取った紙切れを、着ていたシャツの胸ポケットにしまった。
「コーヒーはホットでしか飲まないの。真夏でもね。」
彼女はカップの液面を大事そうに見つめてそう言った。
「それに、ひどく酸味が強いのが好み?」
眼は合わせずにそう言った。
「ええ、もちろん。」
彼女はそう言って、ソーサと一緒にサイドテーブルにコーヒーを置こうとしたが、誤ってソーサのフチにカップを乗せてしまい、カップが倒れた。
「失礼、すぐにタオルを—。」
「先生、その前に眼鏡をかけてはいかがですか?」
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