第7話 イーサン・ヘンダーソン

 クリニックからの帰り道、街は重い雲に包まれて今にも雨が降り出しそうだった。大通りに面した書店で、何か気分転換になるような小説でもないかと探そうかと思ったが、雨が降り出す前に帰宅することにした。

 

 小説を読むことは、例のカウンセラに勧められたことの一つだったけれど、それはまた近いうちに始めれば良い。どうせ時間はいくらでもあるのだ。

 

 そう思いながら速足で大通りを抜けようとすると、歩いていたすぐそばの路肩に黒いプリウスが一台ゆっくりと減速しながら近づいてくる。付近に車を止めて立ち寄るような店はない。明らかに私に対して接近しているのだと判った。

 

 知り合いだろうか。

プリウスに乗っていそうな知り合いがいたかと思い出そうとしているうちに、ついに車は完全に停止していしまった。

 

 プリウスがハザードランプを点滅させ始め、エンジンが静かに停止すると、後部座席から一人の男が降りてきた。


 「Mr. ハリス、いや、レイ君。だね?君に会えて嬉しいよ。ずいぶん大きくなったじゃないか。」

 そう言って男は握手を求めてきた。とても大きな手だったし、身長も私よりも10 cm近く高かった。


 プリウスから辿たどっていた記憶を中断し、男の顔を覗き込むが、思い当たる人物が見当たらない。年齢は50を過ぎたくらいだろうか。


「失礼ですが…」

 言いかけると、


「ああ、申し訳ない。君が覚えていないのも無理はない。私は君の御父上の古い友人でね、イーサン・ヘンダーソンという。最後に会った日、君はまだ5歳だった。今日は偶然、見かけたのだけれど、すぐに君だと判ったよ。何分なにぶん、御父上によく似ている。」


 イーサン・ヘンダーソンは如何にも壮年らしい口調で、低く、けれど優しさを感じさせるような口調でそう話した。


 「左様でしたか。気付かずに失礼しました。父とは先日少しだけ会いましたが、現在は別居中で。私も長らくアフガニスタンにいたものですから、最近の父のことはからっきし把握していないのです。」


 彼の目を見ようとすると、どうしても顔が見上げる形になってしまう。


 「ああ、君の両親が別れたことは聞いているよ。

そうか、アフガンにいたのだね。それはご苦労様。色々と合衆国でも意見が分かれたけれど、私は一貫してアフガン出兵を支援してきた。戦争は確かに醜いことだが、少なくとも国のために戦う人々の命と勇気は尊敬されるべきだからね。」


 彼はそう言いながら、遠くの曇天を見つめる。


「時に、レイ君。せっかく久しぶりに会えたのだ。せっかくなら、私とアームレスリングをしてくれないだろうか。」


 ここ数日、その単語にはセンシティブになっていたから、思わず顔が歪んでしまった。今朝の記事の件もある。


 そんな私の表情を見て、

「あー、いやいや何もAW法で君に何かを要求しようという話ではない。最近、アームレスリングはブームみたいなものだから、従軍していた君と単純に力比べしてみたくなっただけだよ。」


 よかったら、すぐそこのテラスカフェのテーブルで、と言ってヘンダーソンは歩き始めた。


 「さあ、私もまだまだ若くないことを証明して見せたいね。」

 ヘンダーソンはそう言って微笑むと、カフェのテーブルに肘を立てた。


 終始違和感を抱いていたのは、彼の所作の全てが、完璧に鍛え上げられた軍人に限りなく近いように感じられたためだ。

 父の友人と言っていたが、元々軍人だったのだろうか。

 いずれにしても、特に何も懸かっていない気楽なアームレスリングなのだから、勝ち負けにさして意味は無いし、終わらせて帰るつもりだった。


 「セット。」ヘンダーソンが言う。


 彼の手を握る。

 皮膚が硬い。

 明らかに鍛錬された人の手だと分かる。


 握力はまだほとんど伝わってこないが、腱の一本いっぽんが、明確な目的をもって硬化している。


「レディ。」


 握力が加わる。

 その一瞬間いっしゅんかんに、これは勝てないと直感する。

 あらゆる筋力の使い方をシミュレートしても、どれもことごとく撥ね返される。

 総指揮筋そうしききん強張こわばっている。

 

 やはり勝てない―。

 

 そう思った。


「やめなさい!」


 突然声が響いた。

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