43、夫の知らない妻
あれから、ふとした拍子にユーディットのことばかり考えている。気づけばユーディットの姿を目で追っている。
彼女に嫌われたくなかった。好意を持ってほしい。だからベルンハルトは、ユーディットとの時間を増やした。彼女が喜ぶことを考え、実行した。
ユーディットと一緒であれば、美術館も植物園も、動物園も、家の庭でさえ、どこだって楽しかった。彼女も決して嫌がっていない様子で、この調子を続けていけば、心を開いてくれるはず。ベルンハルトはそう思っていた。けれど――
「ユーディット」
窓際でぼうっと外を眺めていた妻は、はっとしたように振り返り、すぐに何でしょうかと夫に微笑む。実に素晴らしい作り笑いだ。
「何か悩みごとかい?」
「ええ。今日はよく晴れているので何をしようかと考えていたんです」
嘘だ。
ユーディットは嘘をつくのが下手だ。それを見破ることはできても、本心を暴くまではベルンハルトにはできなかった。もどかしい。素直にたずねてしまいたいのに、本音を聞くのが怖くもあった。
(アルフォンスのことがまだ忘れられないのか)
ヴェルナー夫人に何を拭き込まれたのか、今まで乗り気ではなかった茶会に行くとユーディットは言い出した。頑なな口調に、ベルンハルトはもしやと思った。妻はまだ元婚約者に対して未練があるのではないかと。
たぶん、そうなのだろう。だからこそ、あの日涙を流したのだ。熱で魘されるほど、ショックだったのだ。
アルフォンスに会いたいのかとたずねたユーディットは動揺した。その姿に、彼女自身もまだ彼を愛している証拠をはっきりと突き付けられた気がした。
なぜ、とかどうして、という疑問。そして嫌だ、と実に単純で、それゆえ強い感情にベルンハルトは襲われた。
(彼女は、私の妻だ!)
気づけばユーディットを組み敷き、己の思うがまま彼女を貪った。相手の意思を無視して、自分の欲望をただぶつける行為。ベルンハルトからすれば恥ずべき振る舞いで、大失態だ。それでも抑えがきかなかった。心が手に入らないなら、せめて身体だけでも自分のものにしてしまいたかった。
(きみが好きなんだ……)
それでも――こんな時でも、ユーディットは抵抗しなかった。できなかったとしても、責めることすら彼女はしなかった。それがなおさらベルンハルトを傷つけ、嫉妬心を煽った。
自分がどれだけ優しくても、愛していると告げても、彼女は同じ気持ちを返してはくれない。年齢や、結婚に至った経緯を考えれば、仕方がないことかもしれない。今はまだ時間が必要なのかもしれない。
(わかっている。だが……!)
頭では理解していても、心が追いつかなかった。
ユーディットの心を奪って離さないアルフォンス・ミュラーが羨ましかった。
「さぁ、どうでしょう。相手は私のことをそれほど愛してはいなかったのではないでしょうか」
「傷ついても、誰か他の者が愛してくれれば、癒せる傷のはずです」
「たいした傷ではありません」
だから誘われた夜会で彼がそう言った時、気づけば殴っていた。ビアンカがわざと言わせたのだとわかっていても、挑発に乗ってしまえばかえってユーディットを傷つけるとわかっていても、ベルンハルトはアルフォンスを許せなかった。
(ユーディットは今でもおまえのことを想っているんだぞ。今でも忘れられないで、それでも懸命にそれを押し留めて……それを!)
自分だってアルフォンスと似たり寄ったりだ。責める資格など、ない。だからこれは、嫉妬混じりの八つ当たりだった。後悔はしていない。ユーディットを泣かせてしまったことは、悔いているけれども。
(それにアルフォンスはわざと殴られた)
最初の一発はともかく、それ以降は避けようと思えば避けることができたはずだ。でもアルフォンスは逃げもせず、反撃することもしなかった。ユーディットへの罪悪感からか、やつももしかすると今頃になって……
「ユーディットが愛しているのはアルフォンス・ミュラーではないわ」
「なに……?」
悶々と考え込んでいたベルンハルトに、ビアンカが朗報とばかりに言った。彼女が主催したパーティーを台無しにしたお詫びに来た日のことである。
てっきりネチネチ文句を言われるとばかり思っていたベルンハルトは、思わぬ話に面食らう。その様子を見て、彼女は笑った。
「あなたのそんな顔、初めて見たわ」
「アルフォンスでないとするならば、一体誰なんだ」
「知りたい?」
駆け引きを楽しもうとする彼女に、今は苛立ちが募る。
「教えないというなら、別に構わない」
「そんな怒らないで。スヴェン・シュナイダーよ」
「スヴェン・シュナイダー?」
「ええ。子爵家の嫡男。ユーディットとは、同級生の関係だったの」
同級生。同い年。ベルンハルトの知らないユーディット。
「……それで? 同級生だから恋人だというきみの邪推か?」
「私、見たもの。あなたの奥様とスヴェン・シュナイダーが会う所」
そんなはずはない、とベルンハルトは眉をひそめた。
「一体どこで?」
「奥様とあなたが夫婦そろって出席した初めてのパーティーでよ」
アルフォンスの妻、クリスティーナに出会った日かと苦々しく思い出す。彼女が傷ついて涙を流した日でもある。
「ユーディットが別の夫人に絡まれている所をね、さりげない感じでスヴェンが助けていたの。その時のユーディットの表情。別れ離れになっていた恋人が助けに来てくれて、歓喜する乙女の顔をしていたわ」
ビアンカの誇張も入っている。騙されるな、とベルンハルトは言い聞かせつつ、冷静になり切れない自分がいた。それ以上聞きたくない。自分の知らない、彼女のことを。
「侯爵夫人。きみの想像は実に面白い」
「想像ではないわ」
「いや、想像さ。私の妻が愛しているのは、アルフォンスさ」
「ベルンハルト。女の勘というのは、馬鹿にできないものよ」
それがどれほど恐ろしいものであるか、ベルンハルトはとっくに知っていたけれど、当てにできるものかとビアンカの言葉を跳ね除け、逃げるように屋敷を後にした。
(そうだ。ユーディットが忘れられないのはアルフォンスだ)
彼女も言っていたではないか。幼馴染で、幼い頃から結婚が決まっていた相手だと。だから裏切られて、ショックを受けた。
あの日流した涙が、それ以上特別なものを意味するなんて、考えたくなかった。
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