42、気づいた時には

「ユーディット。今度私と一緒に夜会に出席してくれ」


 夜会に誘ったのは、ほんの気紛れだった。


 再婚した妻に会ってみたいと、しつこくねだってくるビアンカが面倒でもあったし、そういえば夫婦そろって出かけたことがまだなかったなと思い至って、せっかくならユーディットと踊ってみたい、という気持ちになったから。


 思えば初めて会った時はとにかく要件を済ませようと、雰囲気も何も考えていなかった。もう少し、年頃の少女が憧れるような状況で結婚を申し込めばよかったかもしれない。


 そんなことを考えながら、ベルンハルトはユーディットと踊った。案外、と言っては失礼であるが、思いの外楽しかった。


 彼女もいつもより砕けた様子で、ごく自然な笑みを見せてくれて……なぜかひどく落ち着かない気になった。だから飲み物をとってくるつもりで、少し心を沈めようと思った。


 すぐに、戻るつもりだった。


「――奥様。いじめられていたわよ」


 まさかアルフォンスの妻が接触するなんて、予想していなかった。


『できるだけ早く戻ってきて下さい』


 ――お願い、一人にしないで。


 ビアンカに教えられるやいなや、詳細をたずねる暇もなくベルンハルトは駆け出していた。


「ユーディット!」


 階段で座り込む姿を見て、叫ぶように名前を呼べば、彼女はとっさに逃げ出した。けれど動きにくいドレス姿ではさほど早く逃げることはできず、あっけなくベルンハルトに捕まえられた。


(よかった。無事で……)


 安堵のあまり彼女を責める気持ちが湧き起ってくる。すぐに戻ると言ったのに。どうして待っていてくれなかった。知らない人間について行ったりした。なぜ、と問いただそうとして――彼女の涙に、頭が真っ白になった。


「っ……」


 傷ついて、どうしてと訴える表情。ベルンハルトは強く頭を殴られた気がした。彼女が今泣いているのは、アルフォンスと遭わせる羽目になったのは、自分が彼女の近くにいなかったからだ。彼女を一人にしたからだ。


 自分のせいだった。


「あなたは、ひどい……」


 はらはらと涙を流す彼女に、どうしていいかわからない。


「わたしのこと、嫌いなら放っておいて下さればいいのに。どうして……」


 違う。嫌ってなど、いない。


 ただ懸命に耐えようとする彼女がいじらしく、今まで抱いたことのない感情をベルンハルトに与えたから……エアハルトを気にかける様子も、夫である自分を優しく受け止めてくれることも……時々、一人で居る時に誰かを想って上の空でいることも、気になって仕方なかった。


 その誰かが元婚約者のアルフォンスかと考え、彼女の口からその名を聞くたび、実に面白くなく、不愉快な思いにさせられて……。


 アルフォンスが夜会に出席することは、なんとなく予感していた。ユーディットが彼と会いたくないと望んでいることも。無理に会わせるつもりはなかった。けれど……心のどこかで、本当は期待していたのかもしれない。


 ユーディットがアルフォンスとクリスティーナの仲睦まじい姿を見て、絶望することを。アルフォンスは元婚約者ユーディットのことなど、きれいさっぱり忘れているのだと。想うだけ、無駄であると。


 そんな妻を、自分は慰めようとしていた。それで済む話だと思っていた。


(それがこの有様だ)


 結果はユーディットを深く傷つけ、泣いている彼女を抱きしめていいのかもわからない。


「きらい。アルフォンスさまも、あなたも、だいきらい……」


 涙で濡れた声は弱々しく、消え入りそうなほど小さいのに、ベルンハルトの心を深く抉った。どんな刃物で傷つけられるより、胸に堪えた。


 すまない、と謝ることしかできなかった。


 今回のことと、結婚してからの慣れない環境の疲れが出たせいか、屋敷へ帰ったユーディットは倒れるように熱を出した。


 普段のベルンハルトならば「たかが熱くらい……」と静観していただろうが、魘され続ける彼女に生きた心地がせず、何か手伝えることがないかとたずねては、医者や使用人たちを困らせてしまった。


 旦那様は休んでいて下さいと言われても、なかなか眠れず、ようやく意識を手放せたと思っても、夢の中にユーディットが出てくる始末で、ちっとも休んだ気になれない。


「熱も下がりましたし、もう大丈夫でしょう」


 ようやく医者にそう言われても、彼はなかなかユーディットのもとへ行く勇気がもてなかった。また拒絶されるのが怖かった。でもやっぱり気になって、夕食に現れないエアハルトを呼びに行くついでに彼女の寝顔を見つめた。


 普段よりずっと幼い寝顔に、改めて罪悪感が押し寄せてくる。可哀想だ、不憫な子だと思いながら、自分はどうしてもっと彼女の気持ちに寄り添ってやれなかったのか。


「父上。母上のこと、大切にしてあげて下さい」


 エアハルトのじっと観察するような眼差しに、どきりとする。聡いこの子は、出かけた先でユーディットを傷つけるような出来事が起こったのだと勘付いている。それに自分の父親が関わっていることも。


「僕は、母上にいつも笑っていて欲しいです。父上も、同じ気持ちでしょう?」

「……ああ、そうだな。エアハルト。おまえの言う通りだよ」


 泣いている姿は、もう見たくない。笑っている顔が見たい。


「あなたはわたしのこと、嫌いではないの?」


 嫌いなんかじゃない。嫌いなら、泣かれてこんなに落ち込んだりなんかしない。睡眠不足になるほど、きみを心配したりなんかしない。


 嫌われることを、こんなにも怯えたりしない。


(私はきみのことが……)


 好きなんだ、とは言えなかった。


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