44、ユーディットの幸せ

 その後もビアンカはスヴェンとユーディットの関係をベルンハルトに教えようと手紙を寄こし、脅迫まがいの訪問を強要した。彼は聞きたくないと思いながらも、足を運び、二人の関係を知ってしまう。


 シュナイダー子爵は愛妻家で、妻をとても愛していた。彼女が無類の宝石好きで、家族全員の生活を危うくするほどのものでも離縁することはしなかった。


 いっそ突き放していれば、代わりに金を見繕ってくるよう言えば、子どもたちが泥をかぶることはなかったかもしれないのに。


「この前ね、彼と仲が良いというご夫人とお会いしたの」


 スヴェンには姉がおり、身体が弱い。父親はあちこち金を貸してくれるよう駆けずり回っているが、平凡な容姿の中年男性には誰にも見向きもしない。けれど息子のスヴェンは若くて、母親譲りの美しい容貌を譲り受けていた。


「中性的な容姿でね、でもやっぱり身体は男性でしっかりとしているの。少し上の私のお友達も、みんな彼のことをたいそう可愛がっているそうよ」


 ユーディットと同じ、生贄になる道をスヴェンは選ばざるを得なかった。たとえ男だとしても、好きでもない女の相手をするのは苦痛だろう。まして自ら望んでいない道なら。


「ユーディットはとても優しいもの。彼の境遇を知って、自分のことのように胸を痛めたはずよ」


 関係といっても、婚約者でも、幼なじみでもない。恋人でも、なかったはずだ。


 でも、と思う。同じように、家のために自分の未来を犠牲にした二人。共感できる部分が、互いを支え合っていた繋がりがあったのではないか。


 細くて、頼りないけれど、縋りつくには十分な絆。


「ねぇ、ベルンハルト。ユーディットは可哀想だとは思わない?」


 ビアンカが立ち上がり、ベルンハルトにすり寄ってくる。かつては魅力的だと思った香水の匂いが、今はひどく気持ち悪い。


「あの子、まだ十六歳なのよ。それなのにあなたと結婚して。いえ、決してあなたが嫌な結婚相手という意味ではないわ。ただ年齢の差というのは、思いの外結婚生活に大きな影響をもたらすわ」


 ビアンカの言葉には説得力があった。彼女もまた、親子ほど離れた夫と結婚して、今は別居に近い生活を送っている。


「夫は私の身体には夢中になってくれたけれど、心まで理解しようとしなかった。いいえ、できなかったの。勇猛果敢な行為を無鉄砲、可能性のある失敗を未熟で愚かな過ちだと、良くない方へばかり物事を置き換えた。そのうち、喧嘩することすら面倒になって、私は王都へ一人飛び出した。そして……あなたに会ったわ」


 寂しさを持て余した彼女を、かつてベルンハルトは愛した。妻を亡くして、一人になった時期。ちょうどいい気分転換。彼女の方も、本気にするつもりはなかった。実際自分の他にも、噂になった愛人は何人もいた。


 執着しない彼女との付き合いは、それなりに楽しかった。楽だった、というべきか。


「あなたと会っている時間は、まるで夢のようだったわ」

「夢ならば、いつかは覚めるものだ」


 そしてベルンハルトの方はもうとっくに覚めている。冷たく彼女を突き放せば、ビアンカはなぜかくすりと笑った。男がこういう態度をとることは、とっくにわかっていたというように。


「そうよ。夢。でも、ほんの一夜の夢でも、それが永遠に、私の心の支えとなっているの」

「何が言いたい」


 わかるでしょう、と彼女は赤い唇を吊り上げる。


「ユーディットにも、同じ思いを味わせてあげましょうよ」

「無理だ」


 ベルンハルトは即答した。ユーディットを他の男に抱かせるなど……たとえ彼女の愛した男でも許し難い。いや、想いあっているからこそ、認めるわけにはいかなかった。


「あなたの渋る気持ちもわかるわ。でもこれは、スヴェンも望んでいること。未来ある若者の幸せを、年長者である私たちがほんの少し我慢すれば叶うのよ?」

「ユーディットは私の妻だ」

「ベルンハルト」

「彼女はそんなこと望まない」

「そんなのわからないわよ」


 初めて、ビアンカの口調が冷たいものに変わった。


「あなたはユーディットを神聖視しているようだけど、あの子も立派な女よ? 好いた男に抱かれたいに決まっているじゃない。それをあなたは奪うの?」


 奪って何が悪い。彼女はすでに自分と結婚している。


「なら、ユーディットに委ねればいいわ。彼女を信用しているなら、彼女はきっとスヴェンを拒絶するはずよ」


 ベルンハルトは、どうでもいいという表情を貫けなかった。敵の前で動揺を晒してしまった。


「ユーディットを愛しているのでしょう?」


 聖女のごとく甘いビアンカの囁き。


「これは彼女のためでもあるのよ。一度くらい、二人を会わせることを許してあげるのも、夫の寛容さを示す良い機会ではないの?」


『ベルンハルトさま』


 ユーディットの笑みが、瞼に浮かぶ。彼はきつく目を閉じて、全身が苦しみに蝕まれるようだった。耐えて、悶絶して、――やがて目を見開いた。


「わかった」


 一度だけ、一度だけ許そうと決めた。

 それがユーディットの幸せだと思って。


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