37、別れ

 ベルンハルトは怒っているようで、真っ青な顔をしていた。ユーディットとスヴェンの両人を交互に見つめ、最後に、「ユーディット」と掠れた声で名を呼んだ。かと思うと、大股で近づいて来て、スヴェンから奪い取るようにユーディットを己の方へ引き寄せ、きつく抱きしめてきた。


「ああ、ユーディット……」


 存在を確かめるように、後頭部に大きな掌を当てられ、せっかく整えてきた髪が乱れてしまう。離れようとするユーディットを、ベルンハルトは何度も名を呼んで、引き止めた。


「ブラウワー伯爵」


 そんな彼の様子を間近でじっと見ていたスヴェンが静かな口調で語りかける。


「どうかご安心ください。彼女は僕を拒み、あなたへの貞操を守り通しましたよ」


 ベルンハルトは顔を上げ、真偽を確かめるような、困惑した表情で相手を見つめる。


「きみは――」

「スヴェン!」


 声を荒げたのはベルンハルトではなく、後ろにいるビアンカであった。彼女は一体どういうことなのとスヴェンに詰め寄る。


「おまえ、私との約束を破るつもりですか」


 夫人の剣幕にも、スヴェンは動じなかった。


「いいえ、侯爵夫人。僕は約束をきちんと果たさせてもらいました。彼女と会って、最後のお別れをすること。それが僕の望みでした。あなたが何を期待なさっていたかは存じませんが、このような機会を授けて下さって、大変感謝しております」


「……素敵な言い訳ね、坊や。けれど私の望みを読み間違えて、許されるとでも思っているの」


 ユーディットははっとして顔を上げた。この再会は、ビアンカがスヴェンに持ちかけたもの。彼が断ろうとしても、きっと夫人は許さなかったはずだ。彼の安寧を条件に、必ず頷かせた。


 だからこのような結果になってしまい、夫人の胸中は決して穏やかではない。恥をかかせたスヴェンを夫人は――


「ああ、許されるとも」


 けれどもベルンハルトが実に朗々とした声で代わりに答えた。


「ベルンハルト。あなた……」

「侯爵夫人。私とあなたは間違っていた。二人を自分たちと同じ、道を外しても何も感じない同類だと思い込んでいたんです」

「……あなたがもう少し遅れていたら、違っていたかもしれませんわ」

「いいえ、変わりませんよ。ユーディットは……私を選んでくれた」


 ちらりとこちらを見たベルンハルトは寂しげに微笑んだ。そんな彼をビアンカは嘲笑う。


「あなたがそう思いたいだけはないの? ベルンハルト」

「ああ、そうかもしれない。けれど、ビアンカ。たとえユーディットが私に心を開かずとも、きみがどんなに心を尽くそうと、私がきみを選ぶことはない」


 だからもう諦めなさい、とベルンハルトは子どもに言い聞かせるように言った。愛する人からの別れを侯爵夫人は強張った表情で受け止め、……意外にも黙って部屋を出て行った。


 荒れ狂うような激しい怒りと嫉妬を露わにすることは、彼女の貴族として、女としてのプライドが許さなかったのだろう。


「それでは僕もこれで失礼させていただきます」

「スヴェン」


 立ち去ろうとする青年を、ベルンハルトが呼び止めた。


「はい、何でしょうか」

「……きみは、」


 ベルンハルトはその先を言わなかった。スヴェンも無理に聞かず、憂いのない笑みで微笑する。


「ベルンハルト様。どうかユーディットを幸せにして下さい」

「……ああ。必ず」


 スヴェンはちらりとユーディットを見て、優しく目を細めた。いろんな言葉が浮かんだけれど、ユーディットは何も言わず、スヴェンも黙って見つめ返す。


 時間にしてほんの数秒であっただろうが、とても永く、一生忘れられない瞬間だったと、ユーディットは扉が閉まり終わって思った。


(――さようなら、スヴェン)


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