36、諦める

「だめ」


 顔を背け、彼の胸を押した。


「ユーディット……」


 スヴェンの傷ついた顔を見ることが、ユーディットにはできなかった。どうして、と訴えかける言葉が苦しい。罪のない子を見殺しにするようで、胸が押しつぶされそうだった。


「ユーディット。僕を選んではくれないの?」


 身を切るような思いに、彼女はわっと泣きだしてしまいたかった。今すぐにでも、彼に抱き着いて、愛してくれと言ってしまいたかった。それでも――


「ごめんなさい、スヴェン。わたしには、できない……」


 ユーディは涙を流しながら、スヴェンを拒絶した。沈黙が、彼の傷ついた心情をまざまざと伝え、ユーディットをますます苦しめる。そんな資格自分にはないのに。彼の方がずっと裏切られたと思っているのに。


(ごめんなさい。ごめんなさい、スヴェン……)


 すすり泣く音がしばらく響き、やがて彼がもういいよと言った。諦めたような、優しい声だった。


「きみならこの道を選ぶんじゃないかって、どこかでわかっていたから」


 泣き止まないユーディットを、彼は慰めるように抱きしめてきた。男女のそれではなく、大切な友人を励ます温もりに、ユーディットは嗚咽を漏らした。


「ほら、もう泣かないで。せっかくのきれいな顔が、台無しだ」

「でも……」

「僕のこと、嫌い?」


 嫌いじゃない。好きだ。愛している。


 拒んだことを、きっといつか後悔するだろう。それでもユーディットは、こんな道を彼に選ばせてはいけないと思った。


「ねぇ、スヴェン。きれいに生きるって、難しいね……」

「僕はもう、汚れているよ」


 そんなことないよ、とユーディットは彼の掌を自分の頬に当てさせた。涙で濡れて、それでも彼の温かさを感じる。


「さっき、あなたがわたしを救いたかった、って言ってくれて……わたし、嬉しかった。ずっと、わたしのこと想っていてくれて、わたし……救われたの」

「ユーディット……」


 彼は辛そうに視線を落とした。


「現実逃避でも? 僕が自分を慰めるための、虚しい夢だとしても?」


 それでもいいよとユーディットは笑う。


「わたしも、同じだから。あなたのことを考えて、ずっと逃げ場にしていた」


 でも、それももう終わりにしなければならない。


「……夫人は、僕たちが一緒になって、それで自分は伯爵とよろしくやるつもりだったんだ」


 ユーディットはここ数日と出かける間際のベルンハルトの様子を振り返り、きつく目を瞑った。もう一度、スヴェンが優しく問いかける。


「本当に、いいの?」

「……ええ、いいの」


 そう、と彼は今度こそユーディットから離れた。お互いに目は真っ赤で、ひどい有様だった。それでも、これでよかったのだと思う。


「ユーディット。これをきみに……」


 彼がポケットから何かを取りだした。


「これ……」


 白い花びらが目を引く、ブローチ。卒業生に贈られる記念品で、ユーディットがもらうことのできなかったもの。


「卒業しないまま、学校を辞めただろう? だから、せめてこれだけはっても思って……先生に事情を説明して、僕の分を早めに渡してもらったんだ」

「そんな……もらえないわ」


 返そうとしたユーディットの手を、やんわりと止め、どうか持っていてくれとブローチを握らせる。


「僕が渡せるものは、何もないから。だからせめてこれだけは……」

「でも、」

「いつか、捨てていいから。きみが本当に、幸せだと思った時、手放していいから。だから、それまではどうか、持っていて……」


 ユーディットは掌のブローチに目を落とす。真っ白な花びらが光に当たってきらきらと、美しく輝いていた。失くしたもの。ユーディットには手に入らなかったもの。スヴェンはそれをずっと覚えていてくれて、渡してくれた。


「ありがとう。スヴェン。大切にするわ……」


 止まっていた涙がまた溢れ出し、ブローチに落ちてゆく。涙を拭おうとした所で、廊下が騒がしいことに気づいた。男の声と、女の声。


 ガチャガチャとぎょっとするような勢いで取っ手を回す音、ドンっというぶつかるような大きな音が立て続けになった。それと同時に「やめて!」という女の悲鳴も。ドン、ドン、と制止の声も聞かず、扉に体当たりする音が響いて、やがて止まったかと思うと、観念したのか、鍵を差し込む音がして、そしてガチャリと扉は開いたのだった。


「ユーディット!!」


 ――ああ、彼はやっぱり来てくれた。


 その時ユーディットの胸にわいたのは、諦めではなく、安堵だった。


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