35、誘惑
ビアンカは悪魔だ。なんて誘惑を、差し出したのだろう。
「スヴェン……」
午後の柔らかな光が降り注ぐ窓際で、彼は微笑んでいる。以前よりも顔艶はよく、栄養が十分行き渡っていて、悩みの種がすべて解消されたごとく晴れやかな表情は、まるでユーディットが知らない相手のようにも見えた。
「ユーディット、久しぶりだね」
彼が一歩近づくと、ユーディットは思わず後ろへ下がり、扉に身体をぶつけた。彼女の反応に、スヴェンは目を丸くして、思わずといった様子で笑った。
「そんなに怯えないでよ」
「どうして……」
掠れて上手く声が出ず、ごくりと唾を飲み込んだ。
「どうしてここにあなたがいるの?」
「侯爵夫人に呼ばれたから」
ユーディットは信じられないようにスヴェンを見つめた。彼がご婦人方の寵愛を受けることで生活を成立させているのは知っている。けれどまさか夫人とも――
「誤解しないで欲しいのだけれど、夫人は僕ではなく、ブラウワー伯爵をご所望している」
「ベルンハルトさまを……」
夫の名を呼んだユーディットを、スヴェンはじっと見つめたまま、さらに近寄ってくる。
「そう。伯爵を。どうしても欲しくって、でも彼は殊の外きみを気に入ってしまったようで、付け入る隙が無いと夫人は困っていた。そこで――」
もう、逃げ場がなかった。顎を掬いとられ、無理矢理目を合わせられる。
「僕に目をつけたんだ」
「侯爵夫人は、わたしのことを調べたの?」
どうやって、と疑問に思うユーディットを、スヴェンはくすりと笑った。
「女性の勘ってすごいよね。あの日僕たちがほんのちょっとすれ違った様子を夫人は見ていて、それで気づいたそうだよ」
「うそ……」
「うそじゃないよ」
まだ上手く事態を飲み込めないユーディットを、スヴェンがゆっくりと抱きしめてきた。清潔な、彼自身の香り。ユーディットはとっさにあの日のことを思い出す。今にも雨が降りそうで、すべてを失って、どうしていいかわからなかったあの時を――
「きみと別れてから、あの時のことをずっと夢見るんだ」
ユーディットはスヴェンを突き放すべきだった。でも、できなかった。だってずっと望んでいた。ずっと、彼に会いたかった。ずっと彼のことが――
「結婚すると言ったきみを僕は引き止めて、一緒に逃げようって抱きしめるんだ。家の借金のことも、父さんや姉さん……家族のことも、何もかも放り出して、自分たちだけの未来を考える。そんな過去を、ずっと、何度も、繰り返し夢見たんだ……」
彼は笑った。
「きみの夫があっけなく死ぬ夢も見たりしたんだ。未亡人になったきみを僕が慰めて、悲しいけれど、これでようやく一緒になれるって泣いて喜ぶんだ。僕の借金も残された遺産ですべて帳消しになって、何もかもすべて丸く収まる。ハッピーエンドだ」
そんなのは都合のいい夢だ。それはスヴェンだって、わかっている。
「馬鹿みたいだろう? くだらない。現実逃避だ」
だから彼の身体はあの時のように震えて、声は涙で滲んでいる。
「夢はね、夢だとわかった瞬間が一番辛いんだ……朝、目が覚めて、これまでしてきた汚らわしいことを思い出して、絶望する。このまま死んで楽になりたいって思うくせに、死ぬ勇気もなくて、生き続けるしかない。そんな自分が、たまらなく卑怯で、嫌になるんだ……」
うん、うんとユーディットは何度も頷いた。自分も同じだった。
「きみを攫ってしまいたかった。借金のことも、家のことも、何もかも放り出して、きみと幸せになりたかった。きみを……」
救ってあげたかった。
「スヴェン……」
彼が少し抱擁を緩め、ユーディットを見つめる。諦めたような、暗い目。一緒に堕ちてくれと縋りつく目。
「ユーディット……」
頬を優しく撫でられ、そっと顔が近づいてくる。ユーディットは逃げたくなかった。拒みたくなかった。だって彼が好きだから。スヴェンとなら、一緒に堕ちてもいいと思っているから。
――好きだよ、ユーディット。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます