34、罠

「今日、出かけるのか」

「ええ。そうですけど……」


 ビアンカとの茶会の日。おかしな所がないか入念に鏡で確認していると、ベルンハルトが落ち着かない様子でたずねてきた。昨夜と、起床したばかりの時も含め、三回目の質問である。


「あなたも、ご一緒しますか?」


 もしやビアンカと会いたいのか。だがベルンハルトは眉間にぐっと皺を寄せ、「いや、いい」と答えるだけだった。


「私が行っては、邪魔になるだろうから。仕事もあるし……きみだけで楽しんでくるといい」


 楽しめるとでも思っているのだろうか。ユーディットはいぶかしげに夫を振り返った。


「ベルンハルトさま。いったいどうなされたのです」


 昨夜から……いや、ここ数日彼はずっとおかしい。


「言いたいことがあるのなら、どうかおっしゃって下さい」

「私はきみが……」


 何かを言いかけ――けれどやっぱり、彼は何も言ってくれなかった。それがユーディットには悲しく、もう知らないとそっぽを向いた。そんな妻に最後まで、ベルンハルトは何か言いたげな眼差しを向けるのだった。


「いらっしゃい、ユーディット」


 ビアンカは満面の笑みで出迎えてくれた。さぁどうぞと案内され、ユーディットは緊張しながらも彼女の後についていく。華美な調度品で飾られた部屋には夫人の好みが反映されており、ベルンハルトやヴェルナー夫人とはまた違った趣向があった。


「こちらが私のお友達よ」


 夫人のお友達は彼女と同じくらいの年齢か、それよりも若い女性であった。そしてみな、夫人よりも冴えない容貌の持ち主であり、話している間も常にビアンカの顔色を伺っていた。


「それでね、ベルンハルトったら新しい奥方に夢中なの」


 茶会は一見和やかに進んでいるように見えた。でも実際はビアンカが一方的に話し、他の女性たちが「まぁ」とか「そうなんですの」とか相槌する。否定的な意見は絶対に口にしてはいけない。ここではビアンカが会話の中心で、女王様だからだ。


「ベルンハルトも変わったわ。昔はあんなに遊んでいたのに」


 そう言ってちらりとこちらを見るビアンカに、うんざりしそうになる。


(やっぱりこうなったわね……)


 ユーディットを立てているようで、自分とベルンハルトとの仲をほのめかしている。変わっているようで、彼は変わっていないとユーディットを嘲笑っている。


「ほんとに、奥様は幸せですわ。ねぇ、みなさん?」

「ええ、本当ですわ」

「羨ましいですわ、あんな素晴らしい人に愛されて」


 愛されて、という言葉に反応したのは、ビアンカだった。


「そう、そうよね。愛されているわよね、ベルンハルトに」


 どうやら気に入らなかったようで、発言した夫人は自分の過ちに真っ青になっている。


「ま、間違えましたわ。愛しているのは、奥様の方ですものね」


 助けを求めるようにユーディットを見てきた。このままビアンカに嫌われて、自分の社交界での地位が危うくなってしまう……彼女の心の悲鳴が聞こえてきて、その表情があまりにも必死で、ユーディットは何だか可哀想に思ってしまった。


「ええ、そうなんです。主人はすてきな人で、わたしの方が慕っているんです」

「あらそうなの、ユーディット。それはベルンハルトも大変ね」


 ユーディットの答えに満足したのか、ビアンカの機嫌が直り、その隣で夫人がほっと胸をなで下ろす。


(――なんて、馬鹿馬鹿しい)


 一体自分は何のためにここにいるのだろう。ビアンカの鬱憤を晴らすため? 退屈に付き合うため? 世間のくだらない噂を解消するため? 


(ベルンハルトさま。あなたは、わたしをどう思っていらっしゃるの?)


 どうして引き止めてくれなかったの。


 胸に湧いた思いに、ユーディットははっとする。自分は彼に行くなと言って欲しかったのだ。彼なら、ユーディットのことを考えて、絶対に行くべきじゃないと、言ってくれる。そう、心のどこかで思っていた。


(わたし……)


 ぎゅうっとテーブルの下で手を握りしめた。裏切られたと思った自分がいて、その事実に何だか泣きそうになった。いつの間にか自分はベルンハルトを頼りにしていた。自分の味方だと思い込んでいた。


 そんな保証、どこにもないのに……


「まぁ、奥様。酷い顔。具合でも悪いの?」


 隙を見せてしまった。ビアンカが大げさに心配して、ユーディットの顔を覗き込んでくる。


「大変だわ。どうか別室で休んでいらして」


 抵抗することも許されなかった。周りも「どうぞお気遣いなく」と喜んで見送ってくれる。ユーディットが傷ついた表情を見せただけで、夫人はこの茶会を開いた意味をすでに達成しているのだ。


「さぁ、どうぞ。こちらに」


 ぐいぐい、手を引かれる。そのあまりの力強さにユーディットはだんだん怖くなってくる。


「あの、夫人。わたし、やっぱり平気ですので」

「いいえ、あなたは休むべきよ」


 こちらの顔を見ようともせず、ビアンカはユーディットを引っ張る。そうして、客間からずいぶんと離れた部屋の扉に手をかけた。


「どうぞ、ごゆっくり」


 豪華な寝台がちらりと目に入った瞬間、ユーディットは背中をドンッと押された。目の前に倒れ込む形で、彼女は床に膝をつき、一体何が起こったのか理解する間もなく、ガチャリという音が冷たく響き渡った。


(え……)


 振り返り、扉を開けようとする。……開かない。


「侯爵夫人! ビアンカさま! 開けて下さい!」


 どうしてこんなことをするのかと、どんどん扉を叩いた。怖い。どうして。お願い、という悲鳴じみた声をあげるも、夫人の声は優しく、冷たかった。


「ユーディット。怯えることはないわ。あなたはずっと願っていたものをようやく手に入れられるもの」

「何をおっしゃって――」


「ユーディット」


 その声に初めて、彼女は部屋に先客がいることを知った。そしてそれは、ずっと聞きたかった人のもので、振り返ったユーディットは大きく息を呑んだ。


「スヴェン……」


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