32、侯爵夫人の誘い

「突然押しかけてしまって、ごめんなさいね」


 微塵もそう思っていない優雅な様子で、ビアンカは客間の椅子に腰かけていた。そのくつろぎぶりはまるで彼女の方がこの屋敷の女主人で、ユーディットが招かれた客のように錯覚させる。


「それは構いませんが……今日はいったいどうしたんです?」


 緊急の用事でも? と思ったが、ビアンカの態度的に違うとわかる。


「いえね、奥様が以前のことを気にしていらっしゃるのではないかと思いまして、居ても立っても居られず、様子を見に来てしまいましたの」


 迷惑だったかしら、と困った顔をされ、ユーディットは首を振るしかなかった。


「いいえ、そんな……わたしの方こそ、せっかくお招きしてもらったパーティーであんなことになってしまって……本当にごめんなさい」


 この場にベルンハルトがいれば、元はと言えばビアンカが蒔いた種なのだから、ユーディットが謝る必要はないと一喝しただろうが、生憎彼は留守で、ビアンカも特に訂正することはしなかった。


「いいのよ、ユーディット。その件については、ベルンハルトがすでに謝ってくれましたもの。誠意を込めてね」


 その言い方は何かを含むものであったが、ユーディットの心が波立つことはなかった。


「そうですか。寛大なお心遣い感謝いたします」


 狼狽えもしない妻に、ビアンカは興ざめな表情を見せたが、すぐににっこりと微笑む。


「でもよかった。あなたが気にしていないようで。これで何の問題もないということよね。夜会にも、またぜひ参加してちょうだい」

「それは……」

「あら、駄目なの?」

「はい。夫人は許して下さっても、世間はまだ色々と落ち着いていないようですから。主人とも話して、しばらくは控えようと思っております」


 ベルンハルトはユーディットのために殴ってくれた。でも社交界で起きた出来事は事実とはだいぶかけ離れた形で広まってしまう。その噂でベルンハルトに不快な思いをさせたくなかった。だからユーディットもしばらくは家で大人しくしていようと考えていたのだが……


「あら、どうして」


 ビアンカはあっけらかんとした調子で疑問を呈した。


「別に誰がどう思おうと、関係ないわ。大事なのは自分が何をしたいか、でしょう」


(ベルンハルトさまみたいな考えだわ)


 二人は似ているのだ。だから波長が合って、男女の仲にまで進展したのだろう。


「ビアンカさまのおっしゃる通りですわ。ベルンハルトさまは、あまり夜会に乗り気ではありません。その意思を、わたしは尊重したいと思っております」

「そう。ベルンハルトが」


 ふーん、と意味ありげに見られ、彼女は負けそうになる。こういった対話は、実に苦手だ。


「それってあなたと結婚したからじゃないの」

「わたしと、ですか」


 そうよ、と確信に満ちた表情でビアンカは頷いた。


「前はあんなにも愉快な人だったのに、今はちっとも話していて楽しくないの。何かと言えば、妻が大切だとか、子どもと出かけるとか、家庭を省みる発言をするのよ」


 夫として当前の振る舞いを常識外れのように言うので、ユーディットは思わず苦笑いしそうになる。


「ね、たまには羽を伸ばしてもらうことも大切だとは思わない?」

「主人のことは、主人に任せておりますから」


 ユーディットがあれこれ口出すべきではない。きっぱりそう言っても、ビアンカはしつこく絡んでくる。


「あら、何も私はベルンハルトのことだけを言っているのではなくてよ? ユーディット、あなたもたまには、亭主のことも、子どものことも忘れて、楽しむ義務があるの」


「いえ、わたしは……」


「ね、そういうわけだから、今度ぜひ私の家へ遊びに来なさいな。昼間だったら、いいでしょう? 私のお友達も紹介してあげるわ。あなた、まだ信頼できるお友達少ないみたいだし、それに周りもいろいろ誤解もなさっているみたいだから、何もなかったということを知ってもらう良い機会だと思うの。ね、いいでしょう?」


 一言も口を挟む機会を与えず、ビアンカはユーディットに詰め寄った。ユーディットはその迫力に押され、つい「わかりました」と頷いてしまったのだった。


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