31、夫について考える
初めて抱かれた時、得体の知れない相手に犯されているようで、とても怖かった。囁かれる言葉が気持ち悪くて、振る舞いは優しくても、嫌悪感があった。
けれど一緒に暮らしていけば、相手の仮面は剥がれ落ち、自分と同じ生身の人間だと知っていった。ベルンハルト・ブラウワーという人間は、悪い人ではない。いい人だと……思う。
癖のない黒髪も、深い青の瞳も、魅力的で、自然と惹きつけられる。性格だって、酷いと思っていたけれど、相手をそれとなく気遣って、面白い話をたくさんしてくれる。女性にモテる理由も、今ならわかる。
そんな彼が、ユーディットを好きだと言って、愛していると抱きしめてくれる。夫が妻を愛してくれるのは、いいことだ。とても素敵な人なのに……
どうしてベルンハルトと同じ気持ちを抱けないのだろう。
ユーディットは針を動かしていた手を止めて、ふぅとため息をついた。気分転換に何か縫おうかと思って始めたが、気づけば夫のことばかりを考えている。
――好きだよ、ユーディット。
ユーディットはベルンハルトに熱をぶつけられる度、困惑してしまう。そして根底に受け取りたくないと拒絶する自分がいるのだ。
なぜ、と責める自分がいる。夫に従順で、愛さなければならないと思うもう一人の自分に。
(もし普通に出会っていたら、何か変わっていたかしら……)
例えば――婚約者もいないユーディットが舞踏会に参加して、偶然ベルンハルトの目に留まって、一曲踊ることになる。緊張していたユーディットは不運にも彼の足を踏んづけてしまって、真っ青になって彼に謝る。そんなユーディットにベルンハルトは気にしないでいいと優しく微笑んで、今まで何度も踏まれたことがあるから逆にそうじゃないと落ち着かない気分になる……という軽口を叩いて、ユーディットは思わず笑ってしまう。
ぎこちない雰囲気はいつの間にか消え、まるで二人きりの世界になったみたいな感覚に陥って……きみと話していると楽しいと彼は言ってくれて、わたしもとユーディットははにかみながら答えるのだ。
(……なんてね)
想像でも、あり得ないと思ってしまった。
現実は、彼は母親となってくれる子を探していて、ユーディットはこれからどうしていいかわからない迷子の気持ちだった。歳も離れていて、性格だって違う。まともに出会っていたら、彼はユーディットなど絶対相手にしなかった。
(それにもしエアハルトがいなかったら、ベルンハルトさまは一生結婚なんかしないで、遊んで暮らしていたはずだもの)
その方がずっと気楽だから。相手にパートナーがいようがいまいが、彼は自由の身で、難しいことは考えなくていい。なんて素晴らしい世界だろうと、彼は笑っていたはずだ。
(そんな彼が……)
ユーディットは目を瞑って、軽く息を吐いた。手元の刺繍は、ちっとも進んでいない。もうやめてしまおうかと思っていると、メイドが客人の知らせを告げにきた。
「まぁ、侯爵夫人が?」
「ええ。どうしても奥様にお会いしたいと……」
「それは……」
一体どういう用件だろうか。何かのっぴきならない出来事でも起こったのか。
(ベルンハルトさまもいらっしゃらないのに……)
いや、もしかしてと思う。ビアンカはわざと彼の留守を狙って訪れたのか。自分と二人きりで伝えたいこと。ベルンハルトのことで、何か……
「どうしますか?」
断りましょうか、と不安がるメイドに、ユーディットはいいえと首を振った。どちらにせよ、相手はユーディットより敬うべき人物で、蔑ろにはできなかった。それも見越して、ビアンカは会いに来たのだろう。
「お会いするから、客間にお通しして」
気が重く、まるで戦場に赴く兵士のような心地でユーディットは腰を上げたのだった。
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