28、夫の言いたいこと
「お帰りなさいませ」
ベルンハルトが帰宅すると、真っ先にユーディットのもとへやってきた。怖い顔をしているのは、家令からアルフォンスの来訪を告げられたからだろう。
「ミュラー公爵が来たと、」
「はい。一通りの謝罪をして、お帰りになられました」
とたん苦虫を噛み潰したような顔をして、行儀悪く舌打ちした。
「私の留守を狙って訪れるとは、相変わらず計算高い男だ」
偶然だとは思うが、ユーディットは何も言わず黙っていた。二人は水と油のように相性がよくない。下手な同意や反論は、夫を刺激するだけだ。
「きみも、もっと思うことがあったら言えばいい。どうせあの男はきみが優しくて従順だから、一言すまなかったと言えば、丸く収まると高を括っているんだ」
ベルンハルトは腹の虫がおさまらないようで、部屋の中を忙しなく行ったり来たりしている。ユーディットは困ってしまい、落ち着くよう茶でも持って来させようと腰を上げた。
「どこへ行くんだ」
するとたちまち、腕の中に閉じ込められてしまう。
「お疲れのようですので、何か口にするものを」
「いい。何もいらない」
手を引かれ、長椅子に座らされると、ベルンハルトも隣に腰を下ろす。かと思えば寝っ転がって、ユーディットの膝の上に自身の頭を置いてきた。彼女は驚いたものの、やがて仕方ないというようにそっと彼の髪を撫でてみる。
「疲れた……」
目を瞑ったまま、彼は小さな声で吐き出した。
「ビアンカさまは何と?」
「うん……いろいろ言われたけど、最終的には許してもらえたんじゃないかな」
本当だろうかと思いつつ、とりあえず一安心する。ぱっと彼が目を開け、ユーディットを見上げた。
「気に病むことはない。だいたい、あの場で公爵にあんなことを言わせたのも、ビアンカの企みだ」
「それでも、先に挑発に乗った方が悪いですわ」
「それはそうだが……」
ベルンハルトは納得がいっていないようで、ぶつぶつ文句を言う。
「私はやはりアルフォンスが許せなかった。きみのことを手酷く裏切っておきながら、傷ついていないなど……どういう神経をしてやがる」
「アルフォンスさまがおっしゃったことも、すべてが正しくないわけではありません」
「そうだとしてもだ。あいつが言うべきことじゃない!」
アルフォンスの言い分を認めようとするユーディットが許せないようで、ベルンハルトはがばりと跳ね起きた。
「前々から思っていたが、きみは自己評価が低い。いや、自分の意見を何でも胸にしまいすぎだ。そういう人間が、この世界では真っ先に食われていくんだぞ」
ベルンハルトの勢いにユーディットは驚きながら、彼をまじまじと見つめる。
(あなたがそれをおっしゃるの?)
ユーディットの心の内を聞いたように、ベルンハルトは言葉に詰まり、ふいと顔を背けた。
「私が言えることではないがな……」
「いえ、その……」
気まずくなって、彼女は夫の手を恐る恐るとった。
「もしあなたと結婚していなかったから、わたしはおそらく、うんと年の離れたの殿方や、あるいは事情があって未だ婚約できていない若い男性のもとへ嫁いでいたのだろうと思います」
「……きみはそちらの方がよかったのか」
暗い声でたずねるベルンハルトに、わからないとユーディットは首を振った。
「アルフォンスさまとも何も起こらず、無事に結婚できていたとしても、上手くいったかどうかは正直自信がありません」
「どうかな。案外愛妻家にでもなったんじゃないかな」
投げやりに答えるベルンハルト。
「どのような道でも、わたしは自分にできることを精いっぱいやるしかなかったのです」
「……それが自分の意見を胸にしまい込んで、夫に従順な態度で接すること?」
こくりと頷く。
「だから、そんな馬鹿にしたようにおっしゃらないで」
ひたと見つめて言えば、ベルンハルトは目を瞠って、やがて居心地悪そうに目を逸らした。呆れられた、と沈んだ気持ちにユーディットがなれば、おずおずと彼の腕の中に引き寄せられる。
「別に、馬鹿にしているわけじゃないよ」
「でも……」
「手酷く反抗されるより、素直な方が嬉しい。ただ行き過ぎると、相手は調子に乗って、きみ自身が危険な目に遭うから気をつけて欲しいということを、私は言いたかったんだ」
「危険な目とは、どういう?」
詳しく尋ねれば、夫は言い淀む。
「だから……最初私があなたに接していたような、振る舞いのことだ」
嫌だったんだろう? と彼は気落ちした様子でつぶやいた。
(以前わたしが言ったこと、まだ気にしているのかしら)
熱が出て、つい本音をぶつけてしまったことを。
「でも、あなた以外と結婚していたら、もっとひどいことを言われていたかもしれませんから……」
「そんなの全く慰めになっていない」
励ましたつもりが、余計に落ち込まれる。
「幸せになった可能性だって、あったはずだろう?」
幸せ……好きな人が自分を迎えに来てくれて、結婚する。そんなもしもがあったのだろうか。
(無理だわ)
現に、ならなかったじゃないか。
「まぁ、今さら手放すつもりはないが」
ベルンハルトがユーディットの首筋に顔を埋め、体をさらに密着させてきた。
「ベルンハルトさま」
「ユーディット。きみはきれいだ」
いやいやと首を振って、彼女の髪がぱさぱさと揺れた。それを支えるように、ベルンハルトの掌が伸ばされ、短いキスが額や頬に落ちてくる。
「たいていの男はきみのような女性を前にしてひどいことをしたくなるんだ」
「どうして、」
「どうしてだろう。眩しくて、真っ白で……可哀そうで、かわいくて、汚したくなる」
「そんなの、ひどい……」
ユーディットの息はしだいに上がっていき、彼の腕から逃れるように体をくねらせた。ベルンハルトは許さず、彼女の抵抗を巧みに奪ってゆく。
「ああ、きみを前にすると、私は自分がひどく汚れた人間に思える。ユーディット、どうか私を嫌いにならないでくれ……」
自分の意見を持てと言ったくせに、嫌なら抵抗しろと教えたくせに、ベルンハルトはユーディットが逆らうことを許さなかった。好きだ、愛していると、うわ言のように何度もユーディットに囁いたのだった。
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