27、泥に沈んでゆく
ベルンハルトに対しての嫌悪をアルフォンスが露わにするようになると、今度はクリスティーナが変わり始めた。
「ブラウワー伯爵はたしかに誠実とは言い難い殿方ですが、ご結婚なされてからは少しずつ変わってきているようですわ。きっと、奥様も幸せなはずです」
だから気になさらないで。後悔しないで。
クリスティーナの嫉妬の目に、アルフォンスは気づかなかった。だから、ユーディットを傷つけるような真似をした。おまえの付け入る隙など微塵もないのだと彼女と自分に教えるために。
「あなたはわたくしのものよ」
そう言って、アルフォンスを独占しようとする。そんな妻の態度を、存在を、アルフォンスはいつしか疎ましく思うようになっていた。
「――お帰りなさいませ、あなた」
ユーディットの屋敷から帰ってきたアルフォンスを、待ちわびたようにクリスティーナが出迎える。彼女にはユーディットと会うことは話していなかったが、内心気づいているのかもしれない。探るように、アルフォンスの全身を眺め、手を伸ばしてきた。
「ああ、何度見ても痛ましいわ」
腫れた箇所に触れようとしてきたので、思わず顔を背ける。彼女はそんな夫をじっと見つめ、すぐに甘えるように胸に頬をすりつけ、何かを期待するように胸元を掌で優しく撫でてきた。
「ねぇ、アルフォンス。その傷をつけた方が、わたくしどうしても許せませんわ。王太子殿下にお願いして、罰を与えてもらってはいかがかしら」
「ブラウワー伯爵は古い家柄で、王家も過去何度か助けてもらった借りがある。今回のことは、それで帳消しとなるだろう」
「でも……あなたは王太子殿下の側近なのよ? こんなの、あんまりだわ……!」
ぱっと顔を上げ、クリスティーナが抗議する。女が怒っているのは、過去ベルンハルトにされた仕打ちが許せないからか。それとも、ユーディットのために男が怒ったからか。アルフォンスを殴ったことで、妻を深く愛している証拠を見せつけられているように思ったからか。
――アルフォンスが殴り返さなかったことが、ユーディットへの未練を残しているように見えたからか。
「王太子殿下が無理ならば、王女殿下にお願いするのはどうかしら? わたくし、頼んでみますわ」
「王女殿下はすでに降嫁された身。何かを頼むにしても、貴族である夫が判断する。結局は、同じことだ」
「そんなの、王女殿下が許しはしませんわ」
「お二人はお前の願いを何でも叶えてくれる便利な道具じゃない。思い上がるな」
はっきりと突き放せば、クリスティーナは傷ついた表情をし、唇をわなわなと震わせた。
「わたくしはあなたのためを思って言っているのです!」
「それは有り難く思う。だが権力を笠に着て都合のよい方向へ物事を進めていくのは、愚かな振る舞いだ」
「けれどそれゆえ、わたくしたちは結ばれたのでしょう?」
今さら何を言うのだと、クリスティーナは笑う。
「でしたら思う存分利用してやればいいではありませんか」
「……利用しているようで、利用されるのはおまえの方かもしれないぞ」
長年のらりくらりと結婚の話をはぐらかしていた王太子はついに妻を娶ることに決めた。相手は王女殿下が嫁ぐ予定だった国の、末の姫。こちらの調査では護衛騎士に対して懸想しているらしい。それを知った上で、王太子は二人をこの国へ招くとアルフォンスに告げた。
それが何を意味しているか――
「アルフォンスさま。どうか、酷いことをおっしゃらないで。わたくしはただあなたを愛しているだけなのです」
仲直りしたいと、クリスティーナはアルフォンスに抱き着く。この華奢な肢体を、近い将来王太子は望むだろう。
(夫に冷たくされ、愛を欲する臣下の妻。そして同じく、護衛騎士と不貞を重ねる王妃の夫)
幼い頃からの付き合いで、兄妹のような関係は、男女の関係へと変わっていく。王太子がずっと願っていたこと。アルフォンスが叶えるのだ。
(そうすれば……)
「ああ、悪かった、クリスティーナ。私も言い過ぎた」
甘い声で口づけすれば、妻はほっと一安心する。公爵家の跡継ぎを産んでもらう必要があるので、今はまだ不安にはさせられない。もう少しだけ、彼女の望む自分を演じよう。
王太子が長年の想いを遂げれば、アルフォンスはますます重宝されるだろう。もしかするとクリスティーナは彼の子を孕むかもしれない。アルフォンスはその時も気づかない振りをして、子を産ませるつもりだ。王太子は――未来の王は、
『高潔なあなたに、そんな道を選んで欲しくなかった』
アルフォンスはうっすらと微笑んだ。
(俺はそんな人間じゃないよ、ユーディット)
ベルンハルトが変わった理由が、アルフォンスにはわかった気がする。人を騙し、弱い存在を利用することを非道だと健気に訴えるユーディットは純真で、眩しかった。
彼女と一緒になれなかったことは口惜しい気もしたが、やはり自分の選択は間違いではなかった。クリスティーナはアルフォンスの妻として利用できる価値が十分あるし、ユーディットを取り戻すのは、すべてが片付いてからでも遅くない。
(ああ、ユーディット……)
妻を抱きしめながら、今度こそアルフォンスはユーディットのことだけを想ったのだった。
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