26、嫌悪、後悔

 ユーディットを裏切ってちょうど一年経つかどうかの頃、クリスティーナの妊娠が発覚した。アルフォンスは怒りを露わにする父を宥め、ユーディットとの婚約を解消した。


「あんまりな仕打ちではありませんか」


 ユーディットの父、クライン伯爵は真っ青な顔でどうにかならないのかと訴えたが、アルフォンスはこれまでずっと支援してきたのだからもういいでしょうと淡々と答えた。


「娘はどうなるのです!」

「ユーディットは気立てのいい子です。まだ若いですし、これから相手はいくらでもいるでしょう」


 そう言って、アルフォンスはクライン伯爵の抗議を打ち切った。婚約も白紙に戻った。


 それはユーディットの立場からすればひどく一方的なものであっただろうが、アルフォンスは気に留めなかった。ユーディット本人からも特に何も言われず、彼自身ももう終わったことだと思った。


「――アルフォンスさま。今回の夜会へは、わたくしも参加してよろしいですか」


 結婚生活は順調であった。クリスティーナは夢見るようにアルフォンスを慕ってくれる。


「身体の方は大丈夫なのか」

「ええ。それよりも少しでもあなたの妻として、役目を果たしたいのです」


 あくまでも秘密裏に逢瀬を重ねていたアルフォンスとクリスティーナであったが、周りは薄々二人の関係に気づいていたようで、口では祝福しながらも、婚約者を裏切った最低な男とか、泥棒猫だとか、陰口を叩いていた。クリスティーナはそれらを払拭したいのだろう。たしかな愛で結ばれた幸せな夫婦だと、世間に認めさせたいのだ。


 アルフォンスも健気な妻だと、いささか情のようなものを抱いて、彼女を夜会に出席させた。


「アルフォンス様もクリスティーナ様も、とても似合いのご夫婦ですわ」

「ええ。夫婦そろって王家に仕えていたことも、きっと何かのご縁だったのでしょう」


 王太子と王女殿下、二人と親しい仲だと知っている人間は、アルフォンスたちを好意的に受け止めようとしている。この調子でいけば、何も問題がない。


「これはこれはミュラー公爵。相変わらず元気そうで」


 けれどそこに水を差したのが、ベルンハルト・ブラウワー、ユーディットの夫だった。ベルンハルトの人となりを予め知っていたアルフォンスは、彼を汚らわしいと思っていた。地位に甘え、毎日遊楽に耽っている貴族の恥。


 よりにもよってこんな男をクライン伯爵は娘の夫として選んだのだ。アルフォンスはひどく失望し、やはり婚約を解消してよかったとも思ったし、せめて次の相手ぐらい紹介すべきだったかと、幾分の罪悪感を彼女に対して抱いた。


「ご結婚なされたようですね。おめでとうございます」


 横にいるクリスティーナを見て、ベルンハルトは女好きのする微笑を浮かべた。


「実に綺麗な人だ。公爵が惚れるのも頷ける」

「まぁ、そんな……」


 クリスティーナが満更でもなさそうな顔をする。


「私も最近結婚したんですよ」


 アルフォンスの頬がわずかに引き攣ったが、クリスティーナは気づかず、おめでとうございますなどと祝福している。奪った男の婚約者がその後どうなったのか、妻は何も知らなかった。知ろうとしていなかった。


「公爵には感謝しなければなりませんな」


 わざとらしく、笑いかけるベルンハルト。


「自身が上へ行くために、何の咎もない娘を捨ててくれたんですからね。おかげで私が貰い受けることができて、とても充実した毎日を送れている」


 奥様にも感謝していますというベルンハルトの声は周囲にも聞こえ、彼らはつられるように笑った。


「そういえば王女殿下は降嫁なさるようですね。隣国へ嫁ぐ予定が、どうしても愛した男と結婚したいという気持ちを国王陛下が汲んでくれたとか……世の中には家の都合でやむなく結婚するご令嬢もいますが、あなたも王女殿下と同じく、誰かの温情を受けたのでしょう。好いた男のもとへ嫁ぐことが叶って、たいへん喜ばしいことです」


 嘲笑とも、蔑みともいえる類の笑いに、クリスティーナの顔は真っ赤になり、恥をかかされたことに対して怒りを覚える。


 けれど、それを露わにすることはできなかった。


 一人の少女を犠牲にし、身分が上の者の権威を利用したというベルンハルトの遠回しな皮肉を認めることになってしまうから。アルフォンスは妻を守るように抱き寄せ、ベルンハルトを睨みつけた。伯爵は美しい笑みを貼り付けたまま、どうぞお幸せにと去ってゆく。


(あんな男が……!)


 ユーディットを娶ったのかと思うと、自分はなんて残酷なことをしてしまったのだろうとアルフォンスは後悔した。同時に生まれて初めて、彼女のことを強く意識した瞬間でもあった。今の今までどうでもいいと思っていたのに……。


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